陽だまり  |  AoyamaKazuki

すか」
「ま、大切に持っていてくれると嬉しいね」
「はい、大切にします。ありがとうございます」
 彼女は本を胸に抱え、何度も頭をさげた。あまりにも一生懸命なので、何だか気の毒にすらなってくる。そんな彼女の純真さが愛おしく愛らしい。
「そんな大袈裟なもんじゃないから。所詮は僕のサインだし」
 こんなに喜ばれたのはそれこそはじめてなので、こちらの方が恐縮してしまう。 
「珈琲でも飲んで、落ち着いて。ね」
 彼女に向かって言ったのだが、実は自分自身に言い聞かせるためでもあった。
「美味しい!」
 ひと口飲むなり、彼女は顔を輝かせた。
「ブルーマウンテンの香りが……」
「おっ、さすがに珈琲屋さんだね。コロンビアがベースなんだけど、ブルーマウンテンを少しだけ入れてある。青山だし――ね」

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家ではないので、今まで数えるほどにしかサインなどしていない。何となくそれらしく見えるように書いたつもりだが、よく見るとただの崩れた汚い字になってしまっている。少しは練習をしないとどうにもならんな、と自虐的な嘲笑は珈琲と一緒に飲み込んだ。
 それでも彼女は、銀色にうねった文字の書かれた本を、まるで産まれたての赤ちゃんでも抱いているかのように、大事そうに両手に掲げて満面の笑顔だ。
 彼女の笑顔を見ていると、こちらも自然と嬉しくなってくる。
「サインしてもらったの、はじめてなんです」 よほど嬉しかったのか、愛おしそうに銀色のうねうねを指でなぞっている。
「僕も読者にサインするのははじめてだよ」
「そうなんですか?」
「うん。関係者に贈呈するときに書いたりはするけど、サイン会とかやったことないしね。だから本当の意味でのサインは君が第一号」
「どうしよう。そんな凄いことになってるんで

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本は一生大切にします。それと、美味しい珈琲もご馳走さまでした」
「また新刊が出たらお店に持っていくよ。君みたいにきっちり読んでくれる読者がいると、こちらも張り合いがあるし、何より嬉しいしね」
「いえ、私はそんな……」
 照れくさそうに俯く仕草が可愛い。
 ふと窓の外を見ると、つい先ほどまで明るかったのが嘘のように、もう街灯が点きだしている。秋の夕暮れは早い。
 彼女を下まで見送り、事務所に戻った。
 さて仕事に戻らないと、と独りごとを言いながら購入してきた資料に目を通そうとするが、文字を目で追っているだけで、さっぱりその内容が頭に入ってこない。
 気持ちを切り替えようと、かなり濃いめの珈琲を煎れて煙草に火をつけるが、紫煙の揺らめきのなかに彼女の姿が浮かぶ。
 ここに越してきて、最初にお店に入った時から可愛い女の子だな、とは思っていた。漢字を読み間違えていたけれでも、僕にしては珍しく

 駄洒落がわかったのか、ぷっと彼女が吹き出す。
 実は先週から凝っている自慢のブレンドだ。元町の自家焙煎店で、若干浅めにローストしてもらった豆を自分でブレンドし、一杯分の豆の量を多くして濃いめに煎れている。香りの高さと、後味にほんのりと残る甘味が気に入っている。
「センセ、ウチのお店より美味しいですよ」
「プロにそう言ってもらえるとうれしいね」
「だって本当です。ウチで買う必要ないくらい」
「でも、エスプレッソマシーンがないからカプチーノができないんだよ」
 僕がいつもカプチーノを買うのを覚えていてくれたせいか、彼女も「ああ、なるほど」
といって納得したようだ。
 それから三十分ほど話をして、ご迷惑になるといけないからと言って椅子から立ち上がった。
「本当に今日はありがとうございました。この

名前もすぐに覚えた。ほんの短い会話くらいなら何度かした覚えもある。今まで幾度となく顔を会わせていたのに、ついさっきまで彼女の魅力に気がつかないでいたことが信じられない気持ちだった。
 いつも見慣れた制服とは違い、今日は私服だったせいもあるのか。いつもはアップにしている髪をおろしていたからなのか。いずれにしても僕は、キラキラと愉しそうに舞う声に耳を奪われ、ひとつひとつの仕草に目を奪われ、ふわふわとした空気を纏った彼女にすっかり心を奪われていた。

 翌日は、朝から東京での仕事を幾つかこなし、昼過ぎに戻ってきた。事務所に上がる前に、カプチーノとサンドイッチを買っていこうと思った。昼食の時間ということもあるが、最大の理由はもちろん彼女に会うためだ。
 ちょうどランチタイムなので、レジカウンターの前は混雑してした。注文を終え、商品が出てくるのを待つあいだに彼女の姿を探してみ

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るが、どうやら店内には見当たらない。バックヤードにいるか、休憩時間中かもしれないと思ったので、そのまま事務所には上がらず店内でゆっくりと飲みながら待つことにした。通り沿いのカウンター席がちょうどひとり分あいていたので、腰を落ちつける。
 二十分ほどが過ぎ、すっかり食べ終えてしまったところで、はたと気がついた。昨日、彼女と話したときに、今日は休みだと言っていたではないか。僕の本をじっくりと読みます、と言っていたあの笑顔が浮かんだ。
 残念だが仕方がない。ここで待っていても彼女は現れない。さっきまで高揚していた気持ちが急速にしぼんでいく。事務所に上がる足取りも重くなる。

 いらっしゃいませ、という元気な声がきこえた瞬間に大袈裟なくらい頬が緩んだ。今日は会えるだろうかと、店に入るまでかなり緊張していた。朝から彼女のことばかりが脳裏に浮かび、原稿がほとんど進んでいない。月刊誌のコ

ぐるりと見回すと、彼女はマシーンの前にいた。制服姿で髪をアップにしてまとめているから、きりっとして見える。まだこちらには気づいていないようだ。
 心臓の鼓動が周りの人にも聞こえるのではないかと思うくらい大きくなった。もう少しで彼女も気づくだろう。
「カプチーノお待たせしました!」と、彼女が顔をあげた。
 僕と目が合い、一拍おいて「センセ!」といって、ぱっと花が咲いたような笑顔をみせた。何人か並んでいる人もいたので、ここで彼女と話をするわけにもいかないと思い、空いている奥のテーブルに座った。
 少しすると彼女がやってきた。ひと段落ついたのだろう。
「センセ、待ってたんですよ。いつ来てくれるかと、待ちくたびれちゃいました」
「僕を?」
「あたりまえじゃないですか、他に『私のセンセ』はいません!」

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ラムだから〆切りまではいくらか余裕があるのだが、どうにも落ち着かない。
 ランチタイムは店が混むので忙しいだろうし、シフトの時間を考えると昼の混雑がひと段落した午後のアイドルタイムに行くのがいいと思った。新刊の感想も聞いてみたいし、何よりも彼女に会いに行きたい。
 今日のところは潔く原稿は諦めて、撮り貯めていた映画を二本ばかり観て時間をつぶした。だがやはり映画の内容は頭に入って来なかった。
 壁の時計を確かめると一階におりた。外では今日も澄んだ青空が広がっている。並木の歩道では今日もイーゼルを立てて絵を描いている人が数人いた。
 昨日の失敗があったので、少し緊張しながら店に足をはこんだ。自分でも可笑しくなるくらいに緊張している。歩き方もまるでロボットのように硬い。
 レジには他の女の子がいた。店に入った時には確かに彼女の声が聞こえた。注文を済ませて

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 少し上目使いの表情で僕を見つめる視線は揺るぎなくまっすぐだ。ヤバイ、この瞳にやられる、と思った。
「ぜんぜん迷惑なんかじゃないよ。大歓迎です。こんな可愛い女性に誘われるなんて光栄の至りです」
 かなりおどけた口調で言ってみたのは、精一杯の照れ隠しだ。
「ほんと? やったぁ!」
 まるで子供が喜んでいるような、バンザイまでしている。その仕草は可愛いと思うが、ちょっと大袈裟な気もする。きっと純真な心の現れなのだろう。無垢な笑顔にこちらもつられて笑顔になる。
「それじゃ、仕事がおわったら事務所まで来てくれる?」
「はい。すぐに行きます!」
「待ってるよ」
 気恥ずかしくなってきたので、事務所に戻ることにた。
 ありがとうございました、と言って彼女は笑

「そ、そう。悪いことしちゃったかな……」
 なんだか叱られている。彼女に会うのを待ちこがれていたのは僕の方で、待たせた覚えはない。でも、待っていたと言われて正直に嬉しいし、ほっとした。
「いただいたご本、読みました。凄くよかったです。ちょっと泣いちゃいました」
「ありがとう。君に読んでもらえてよかった」
 今回の作品は泣ける場面がいくつか盛り込んである。いかに泣けるように描くかで、いちばん時間をかけた作品だ。彼女は作者の意図どおりに泣いてくれたようだ。そういった感想をもらえるというのは、まさに作家冥利に尽きるということだろう。
「センセ、お礼に晩ご飯でもいかがですか? 私、六時にあがれますから」
「僕と? え、あの、いいの?」
 急な展開にまったく思考がついてゆかない。体が宙に浮いてるような感覚に陥る。カップを持つ手が汗ばんでくる。
「ご迷惑じゃなければ……」

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「大丈夫です。これでも一応は『プロ』ですから。センセは座っててください」
「それじゃ……、任せるかな」
 確かに彼女の仕事は珈琲屋さんだ。ここは素直に、彼女の好意に甘えることとする。手際よくドリップをする後ろ姿を見つめているうちに、珈琲のいい香りが部屋に満ちてくる。
「はい、どうぞ」
 目の前に置かれたものは、何故かいつもの珈琲とは違うように見えた。
 ひとくち飲んでみると、自分で煎れるものより味に深みがあるように思う。
「ありがとう。さすがに上手だね」
「そうでしょ、愛情が入ってますからね」と、照れ笑いを浮かべる。
 やはり本職の技術のせいなのか、格段に美味しい。
 クッキーも食べてください、と言うので一枚食べてみたら、これがまた美味しい。何度か同じものを買ったことがあるはずなのだが、これは種類が違うのだろうか。それとも彼女といる

顔で手をふっている。純真無垢というのは、彼女のためにある言葉なんだなと思った。

 何本か仕事のための電話をし、書きかけのコラムと睨めっこをしていると、彼女がやってきた。なかなか執筆に集中できずに、書いては消しの繰り返しで、あまり進んでいない。壁の時計を見ると六時五分だ。本当に仕事が終わったたらすぐに上がってきたらしい。つくづく真っすぐな娘(ルビ:こ)だなと思う。
「センセ、これ差し入れです。お腹すきませんか?」
 そう言って紙袋を持ってきた。中には彼女の店で売っているソフトクッキーが入っていた。
「ありがとう。こんなものまで持ってきてもらって」
「いいんです。サイン入りのご本いただきましたから」
「珈琲でも煎れるよ」
「センセ、私にやらせてください」
「いや、お客さんにやってもらうのは……」

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という気持ちの高揚が、錯覚を誘うのか。
「喜んでもらえて嬉しいです」
「こちらこそ」
 珈琲を飲み終えると、ここからだと歩いても近い中華街まで行くことにした。
 加賀町警察を過ぎて中華街大通りに入る。平日とはいえ、夕食時はやはり人が多い。はぐれないように、僕の袖をつかんで彼女はついてくる。きっと無意識の行動なのだろうけど、そこがまた可愛い。
 ひとりの時は路地裏の小さな安い店に入るが、せっかく彼女と行くのだからたまにはいいだろうと、通り沿いにある大きな有名店に入った。
「大丈夫だよ、今日は僕が持つから安心して」
「センセ、ちょっと高そうですよ」
 あまり慣れていないのか、彼女は店内をきょろきょろと見回している。
 食事に誘ったのは彼女だが、ここは男として格好いいところを見せないといけない。
 少し待つと、二階のテーブルに案内された。

 まずはビールで乾杯だろうと思うが、生憎と僕は飲めるくちではない。彼女にも訊いてみると、同じくほとんど飲めないというので、くち当たりのいい杏露酒をとった。
「美味しい! とっても甘いんですね」
 杏(ルビ:あんず)の甘さが気に入ったようだ。
「ご本の感想を言わなきゃ」
 先ほど彼女の店で「泣いちゃった」というのは聞いた。
「それで、どうだった?」
 主人公の生い立ちや、親友との友情、祖父母との絆、感動した場面などを彼女は瞳を輝かせながら語った。著者である自分でさえ彼女の話に惹き付けられ、しだいに物語の中に引き込まれてゆくほどだ。
「文庫になったら、是非とも巻末の解説をお願いしたいもんだね。僕より上手い」
「そんな、とんでもないです。私なんか……」
 杏露酒がまわってきているのか、照れているのか、頬がだいぶ紅に染まっている。僕の視線

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に、中華街で食事をしたことがなかったらしく、定食屋さんの中華とは違う、と彼女はかなりご満悦のようすだ。
 彼女くらいの年代だと、各メディアのグルメ情報に精通していて、食べ歩きに余念がないのかと思っていたが、そうでもないらしい。
 どこで何を食べるかではなく、誰とどういう気持ちで食べるか――それがいちばん大切なことだと言う。
「だって、仕事のつきあいで行く高級店より、恋人と食べるコンビニのおにぎりの方が百倍は美味しいです」と、彼女は言う。
「なるほど、ね」
 確かにそれはわからないでもない。あまり高級店と呼ばれるような店には入ったことはないが、仕事の都合で初対面の人と食事をすることもある。そいう場合、定食屋というわけにもいかないので、それなりの店に行くのだが、どうも食べた気にならないことがある。それに比べて、気心の知れた編集者と行く牛丼屋の方が「あー、食った食った」という気持ちになる。

に気がついて、両手を頬にあてる。
「お酒がまわってきてるみたいです。ちょっと飲み過ぎちゃったかな」
 小さく舌をだして笑う仕草があどけなくていい。そういう自分も少し頬が熱くなってきている。酒のせいなのか、それとも彼女のせいか。前者、というこで無理やり自分に納得させるが、二人とも小さなグラスで半分ほどしか飲んではいないのだ。
 彼女との食事は楽しかった。やはり小説の話がメインにはなるが、小説も偏ることなく様々なジャンルを読み、ノンフィクション、歴史、経済など多岐に渡る読書量はかなりのものだ。
 初めて食べる北京ダックに大はしゃぎする彼女は、皮だけじゃなく肉も食べれるといいのに、と口を尖らす。なぜ皮だけなのか、という問いに答えられず、棒棒鳥にでもするのかな、といい加減な返事をしておいた。僕も実際のところ昔から不思議である。
 デザート杏仁豆腐と愛玉子を二人で半分づつ食べて店を出た。こんなに近くで働いているの

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