崇(たかし)と由紀の物語 1  |  takahito

過、二階へと続く階段を軽やかに駆け上って行き、姿が見えなくなる。
 何だ? と崇は首を捻っていたが、ちゃら、ちゃら、と金属音がしたかと思えば、ばさっ、しゅるっ、と布の擦れる音が立て続けに聞こえてくるではないか。そして、くちゅう、と奇妙な音。
 一体、二階で何が起きているのか。気になった崇は足音を立てないよう慎重に二階へと上がって行き、そこで見た光景に、
「……ぷっ」
と堪らず噴き出した。眼前にはジーンズとパンツを下ろし、上体をくの字に曲げ、右手に握った容器を尻に今まさに当てようとしているところだったようで、何とも間抜けな格好だ。
 源次は顔を真っ赤にしながら口をぱくぱくさせ、崇は、ぶはははははっ、と爆笑する。
「て、てめえ……下村っ!!」
 源次はジーンズとパンツを上げるのも忘れ、五十代とは思えない素早さで崇に迫る。崇はといえば、源次の下半身に視線がいき、わお、と

が、それを素早くポケットに入れて(隠したとも言う)しまった。
 どこかで見かけたような容器だったが、見なかった見なかった、と崇は自分に言い聞かせた。
「な、何だ下村。飯はどうした。さっさと食いにいかんかっ」
 明らかに狼狽しているが、源次は強気な口調で崇に言う。
「いや、今日は定休日みたいで。だから、戻って来たんですけど……」
 崇がそう事情を説明すると、源次は、何だと、と言いたげな表情を浮かべた。
「そ、そうなのか」
 それじゃ、店番頼む、と言って黒のエプロンを外していそいそと外に出て行った。
 崇は見てはいけないようなものを見た気がしながらもカウンター内に入って丸椅子に腰かけながら週刊誌のページを適当に捲ろうとしたとき、自動ドアが開く音がした。客かと思って顔を上げると源次が小走りにカウンターの前を通

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崇(たかし)と由紀の物語
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なんてよく言えるわよね。面倒くさいったらないわ。一旦家に戻ってわざわざ迎えに来てあげたんだから有り難く思いなさいよ」
 私はタクシー運転手じゃないっての。つか、タクシーぐらい呼べよな。
『高橋書店』に入ってきた真奈美の開口一番に発した文句がこれである。
 その不機嫌な真奈美を目の当たりにした源次と茉莉は呆然とし、立ったままの崇は唖然としていた。
「ほら行くよ。まさか居酒屋に連れていけなんて言わないよな?」
 崇の尻をぱしんと手で叩きながら、じろりと睨みながら言う。崇としては、行きたかったのだが、ここで、行く、なんて言えば真奈美にどんな目に遭わされるか考えただけでぞっとする。なので、
「い、いいえ」
 と丁寧に返答して玄関に足を向け、その後を真奈美がついて行く。
 まるで、連行される容疑者と警察官だ。真奈

外国人風に驚き、一階へと下りようと身を捻ろうとして足元が縺れ、
「おわあっ」
 悲鳴を上げ、横向きに転倒。丸太よろしくごろごろと一階まで転げ落ちていった。それを追いかけようとした源次だったが、今の自分がどのような格好をしているのか思い出し、急いでジーンズとパンツを一緒に上げ、尻に直接注入するタイプの『痔を治す液体タイプの薬』の容器に蓋をしてジーンズのポケットに仕舞い、一階でひくひくと痙攣している崇を見下ろして嘆息した。
 直後、店内に孫娘の茉莉が入って来て、崇の醜態を見て、一瞬目を丸く見開いて驚いたが、
「漫画みたーい」
 能天気にけらけら指差して笑った。
 パンツ見えてんぞ、と言う気は、今の崇にはなかった。

「階段から落ちた? 馬鹿じゃなの。自業自得じゃない。もう、そんなことで迎え来てくれな

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とがあった。普段、家族や他人に対して突っ込みなど滅多にしない麻衣だが、
 ――あなたは誰と闘うの?
 そう突っ込まずにはいられなかった。
 果たし状を送った覚えなんてないわよ、とも思ったものだ。
 一郎もびっくりしてたし、身体が弱い母親の八重でさえ、何事? と店に顔を出したぐらいだ。必死で働かせてくれとせがまれて、麻衣の独断で即決。翌日から働いてもらうことにしたのだが……。
 島村由紀という女性が、同じ中学の出身で告白されたことのある下村崇と同級生だったとは驚いたものだが。しかも、性格が個性的というか何というか。『保原亭』のお笑い担当しても充分に役立ってくれている、と麻衣は密かに思っていることを由紀は知らない。
 手元を休め壁際のテーブル席で常連客相手に談笑する姿は、キャバクラ女性店員のよう。
 ――いつから『保原亭』はお笑い劇場とスナックになったのかしら。

美は後ろを振り向き源次と茉莉に愛想笑いをしたが、今の真奈美 の笑みは逆に恐怖を与えるもので、二人はぞっとしながらも、ど、どうも~、と言うのがやっとだった。崇と真奈美が去った後、店内には源次と茉莉の溜息が響いた。

居酒屋『保原亭』は今日も賑わっている。店主の保原一郎はカウンター内の隅で丸椅子に座りながら新聞に目を通している。強面を更に強面にしながら。これを毎日、一日中繰り返すのである。
 飽きないの? というか職務放棄じゃないの、これ、と常連客は最初こそ思っていたのだが、今ではこれが日常の一部であり、一郎が包丁を握っているほうが異常だと思ってしまう。
 いや、ごく短時間立つけどね?
 実質、店を仕切るのは可愛い可愛い一人娘の保原麻衣であり、料理も彼女一人がせっせと作っている。それは今も変わらないのだが、去年の四月、雇ってくだせえ! と一人の女性が玄関の引き戸を勢いよく開けながら言い放ったこ

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 麻衣はいつか崇が思ったことに『スナック』を足して首を傾けた。
 右手に握った包丁がキャベツを真っ二つにし、左右にころんと転がる。その手がぷるぷると震えていることに麻衣は気づかなかったが、カウンターの隅で新聞から顔を上げた一郎はぎょっとして、冷や汗が頬を伝った。
 我が可愛い一人娘の見てはいけない姿を、新聞と麻衣の後ろ姿を往復させながら、ちらちらと見るのだった。
 何はともあれ、今日も居酒屋『保原亭』は賑やかだ。由紀と常連客たちによるボケと突っ込みと、麻衣がキャベツを刻む音。
 何か足りないないと言うなら、常連客の下村崇が姿を見せないことだろうか。
 ――こんな日もあるよね。寂しいけど。
 麻衣は内心で呟きながらキャベツを刻む。刻む。……刻む。
 とんとんとん、という小刻みのいい音が、しゅたたたたた、と変化――いや、進化を遂げたことに気づいたのは、麻衣を除く一郎と由紀、

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それから常連客たち全員だった。さすがの由紀も、
 ――ま、麻衣さん……? 麻衣さん、どうしたの? しっかりして!
 口にはしなかったが、顔を引き攣らせながら麻衣を見た。
 笑みを浮かべている。それはいい。いいのだが、その笑みが黒いのは気のせいだろうか、と思わずにはいられなかった。
 ――麻衣さん、カムバック! カムバックして!!
 果たして由紀の内心の叫びは……届かなかった。
 もしかして私、とんでもないところに勤めているのかしら、と由紀は少し泣きたい気持ちだった。

               (2巻に続く)

崇(たかし)と由紀の物語
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作成日:2011 年 01 月 04 日

  • 著者:takahito
発行:takahito

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