利絵子の夏(1)  |  takahasitaka

 

利絵子の夏(1)

高橋隆

 なんでも家で相応の自学習をすれば、元住んでいた町の学校に戻った時、単位不足の恐れもなく無事に中学を卒業出来るとのこと。
 なんだかよく分からないが、そんな周囲のことは私の生来のずぼらさも相まって、取りあえず忘れてしまった。

 ここにくる前の学校生活は、ある程度の充実もあったし、ある程度の大変さもあった。
 気の合う同級生との学びや部活の中では、人間として生きることはとても楽しいことだと感じたこともあった。一方、自分をよく思わない同級生と触れあう中では、人間の汚い部分を拡大鏡で覗いているような感触を受けることもあった。
 そんな、普通の学生とごく変わらない日々を送っていた時、不意にそのコミュニティから切り離され一人田舎町にやってきた。

第一話 「プロローグ」

 澄んだ、空。
 私は、それをいつまでも見つめていた。
 透明な淡いブルーと、白い雲。そして……
少し冷たい空気。
 周りに住宅はほとんど無い。道路が一本果てしなく、地平線の彼方に延びている。一時間に一回くらい、のろっとしたスピードで車が通過する。
 典型的な、田舎だ。

 私は、つい最近この田舎町にやってきた。
 それは父の仕事の関係で、三ヶ月の間だけ
この町に転勤をすることになったため。
 色々私には分からない「大人の事情」があるらしく、私はこの町の中学校に転入する必要は無いと言われた。

利絵子の夏(1)

第二話 「最期のスケッチ」

「……ふうっ」
 私は今日の分の勉強を終え、机の上の教科書とノートを閉じた。
 そしてそれから、何気なく窓を見た。
 ……空が、あかつき色に染まっている。
 人のこころをぎゅっとしめつけるような、そんな印象を与える濃いオレンジ色の光。
「……散歩でも、しようかな」
 私は外に出るため、部屋を出た。

 風が、ゆるやかに吹いている。
 部屋の中で黙々と勉強をしていた体にとって、それはとても心地よく感じられた。
 私はそんな中、道路を一人歩いていく。
 と、歩いている途中で古びた一軒の喫茶店が見えてきた。
 この町には道路沿いにほとんどお店が無い……という印象を受けていた私にとっては、少し不思議な心持ちがした。

 私は民家の二階に割り当てられた自分の部屋で一人勉強をし、疲れたら少し外に出て、田舎道をブラブラと歩く。
 延々と続く田んぼ、澄み切った空気。そして……ほとんど誰も通らない道路。その先には、時代の風を受けて古びた商店街が待っている。
 そのことが、何故か、言いようもなく楽しかった。

第一話 終 

 ……営業しているのだろうか?
 私はその喫茶店の前まで行き、ドアノブに手を伸ばそうとすると、
「そのお店、今はやっていないよ」
 背後から声がして、私はびくっとした。
 私が振り向くと、目の前には物静かそうな目つきをした男の人が立っていた。
 体つきや雰囲気からして、年齢は大学生くらいに感じられた。
 その男性は、言葉を続ける。
「……何年か前まではやっていたんだけれど、町の人も減っちゃって採算が合わなくなったみたいで、やめちゃったんだ」
「……詳しいんですね」
「まあ、よく来てたから。……閉店した今でも、時々見に来るんだよ。雰囲気が好きで……」
 男性はそう言って、懐かしそうな目つきを
した。
 と、私はその男性が小さなスケッチブックを持っているのを目にした。

「……絵、描くんですか?」
 私が言うと、何故か男性は自嘲気味に、「まあ、ね……」とだけ呟いた。
 そしてしばらく沈黙が続いてから、
「今日実は、この喫茶店を描きに来たんだ。……最後の絵に、相応しいんじゃないかと思って」
 男性は、空を見上げて言った。
「絵、やめちゃうんですか?」
「うん……」
 男性はそう言って、喫茶店の近くに野ざらしになっていた、古びた木のベンチに腰掛けた。
 そして、鉛筆を取り出し、写生を始める。
 私は、そっとその男性の後ろに立ち、スケッチブックに絵が書き込まれていく過程を見ていた。
 真っ白だったスケッチブックに、モノクロの喫茶店が姿を現していく。
 経営が終了し、レゾンデートル――存在理由が失われていく喫茶店の儚さを体現しているかのような、そんな雰囲気の喫茶店の絵。

「あ、あの」
「なに?」
「……さっきの絵、頂けませんか?」
 私が言うと、男の人はきょとん、としていた。
 それから少しだけ微笑んで、
「……ありがとう」
 そう言って、私に、モノクロの喫茶店が描かれた一枚のスケッチブックを切り取ってくれた。
「それじゃ」
 男の人は、そう言い残して、もう二度と訪れることは無いだろう喫茶店を後にした。
 
 私は、絵をそっと両手で抱きしめながら、
帰路についた。 
 薄闇が辺りを包み込む田舎道で、少し冷たい風が、不思議と心地よかった。

第二話 終

私は、ただ黙って、その作品の制作過程を見続けていた。

 数十分後、絵は完成した。
 私は、その絵のもつ、ガラスのような繊細さと儚さとに、強く惹かれた。
「……どうして、こんなにすごい絵が描けるのに……絵を描くのを、やめてしまうんですか?」
「……世の中に、必要とされていないからさ。人はみんな、強くて頑丈なものを選ぶ。僕は、そういう絵は描けないから……」  
 男の人は、そう言って鉛筆をしまった。
 その絵に惹かれていた私は、男の人の言っていることが、理解できなかった。 
「……そろそろ行かなきゃ。陽も落ちて暗くなってきたし……」
 辺りの夕焼けには、少しずつ黒色が混じり込んでいた。
 男の人は、ベンチを立とうとした。
 私はその時不意に、声が出た。

 そんな中、私に優しく接してくれる人も居た。
 三原多恵さんという、小さな個人食品店を営む女性。結婚して、一人の子供が居る。
 私が勉強を終えて、散歩の途中に多恵さんが営む食品店に立ち寄りパンや飲み物を幾度か買ううちに、話しかけてもらい親しくなった。
 そして今日も私は、最近見つけた海辺に行く途中で、多恵さんの食品店に寄った。

「あら利絵子ちゃんじゃない! いらっしゃい」
 多恵さんはニコニコした表情で私を迎えてくれた。
 私は「こんにちわ」と挨拶してから、パンとペットボトルのジュースを手に取る。
 そしてレジスターの前に行くと、多恵さんは手慣れた手つきで商品の金額をレジに打ち込んでいく。そして、最後におまけのお菓子を少し袋に放り込んでくれる。

第三話 「ハハオヤ」 前編

 この町には、人が少ない。
 ……いや、正確に言えば、人が少ないように「感じさせられる」町だ。
 ある時私が町の人と出会った時、その人は私を見るなり足早に居なくなってしまった。
 最初は私がこの町の部外者だから避けられているのだろうか? と思ったのだけれど、実際の所は、町の人どうしもかかわり合いをなるべく避けているということが分かった。
 町の人と町の人が会っても、挨拶することはなく、決まり悪そうにわずかに下を向いて素通りしていく。
 まるで、赤の他人以上、顔見知り未満の関係。
 私はそんな町の人の様子を目にして、しごく単純に不思議だ、と思った。
 

子供が居るんだけれど……なかなか子育ても大変だなって感じちゃうわ」
 多恵さんはそう言って軽いため息をついた。
「大変なんですか?」
「そりゃあ、ね。ただご飯食べさせるだけじゃなくて、人間関係も子供の学校とかが始まると一気に複雑になってくるし……。私と夫だけだった時の……3倍くらいは大変になっちゃった気がする」
 多恵さんはそう言って、昔を懐かしむ顔をした。
 そして、少し流れる無言の時。
 それから、
「実は私、結婚する気が無かったのよ」
 私はそれを聞いて驚いた。
「そんな……今の多恵さんからは、考えられません」
 私は、明るい笑顔で接客をしている多恵さんをいつも見ていたため、信じられない思いがした。
 多恵さんは、   

「それじゃ、320円ね」
 私が320円を出すと、毎度、と多恵さんは言った。
 そして私がお店を出ようとすると、後ろから多恵さんが、
「ねえ、今時間ある?」
「時間は……大丈夫です」
 私が言うと、多恵さんは顔をほころばせて、
「よかった。昨日ね、友達がゼリーのお中元を送ってきたんだけれど、全部は食べきれそうになくって。よかったら利絵子ちゃんに、一つ二つ食べていってほしかったのよ」
 多恵さんはそう言うと、多少強引に私の手を取ってお店の奥の部屋に私を引き入れた。

 それから、私と多恵さんは居間のような部屋でゼリーを食べた。
 私は柚子ゼリー、多恵さんはマスカットゼリー。
 その中で、世間話も交わした。
「今ね、ちょうど利絵子ちゃんと同じくらいの

「まあ、いつもの私を見てる人はみんなそう言うわ。……でもね、私、昔は男の人が苦手だったの。……正確に言うと、恋愛っていう概念そのものが苦手で。レンアイって結局は、男女間の駆け引きゲームっていうような気がしてね……うそのつきっこ比べ、みたいな」 
 多恵さんはそう言って、少し寂しげに笑った。
「それでしばらくの間結婚しなかったんだけれど、結局紆余曲折あって結婚することになって。そんな感じ。」
 多恵さんはそう言ってから、私にもう一つゼリーをくれた。
「ごめんね。なんか途中で湿っぽい話になっちゃって」 
「いえ……」
 私の考え込むような表情を見て、多恵さんはあわてて、
「まあでも、あれよ。後悔とかはぜんぜんしてないから。だから……利絵子ちゃんは、素敵なお嫁さんを目指しなさいな!」

多恵さんはそう言って私の背中をポンッ、と叩いた。
 多恵さんの最後の言葉の中には、「はんぶんのほんとう」と、「はんぶんの……ほんとうではないこと」の両方があった気がした。

第三話 前編 終

第三話 「ハハオヤ」 後編

 私はゼリーを食べさせてもらったお礼を言ってから、多恵さんのお店を出た。
 ……青空が、透きとおっている。
 お店の外に出て、そう思った。
 私はそれから、当初の散歩の目的どおり、海辺に向かうことにした。

 少し歩いてから辿り着いた海辺にも、人の気配は全く無かった。
 太陽の光のきらめきが海の水面に反射し、潮の香りが微かに漂っている。
 無人と、無音に思えてしまう世界。
 まるで、私一人だけがこの世界に存在しているような感覚。
 私は舗装されたアスファルトの地面に座り、さっき多恵さんのお店で買ったオレンジジュースを飲んだ。
 そして、しばらく海の満ち引きを見つめ続けていた。

 どれくらい時間が経ったころだろう。
 不意に、視線を海から、コンクリートで舗装された地面側に移した時。
 いつの間にか遠くの方で、私と同じように海をじっと見つめ続けている女の子が居た。
 制服を着ているところからして、私と同じ中学生くらいの年齢だろうか。背丈からして、たぶん同学年か、一つ下の学年くらい。
 私は腕時計を見た。
 午後4時32分と、10秒を少し回ったところ。
 おそらく、学校の帰りにこの海岸に立ち寄ったのではないかと思った。
 私はその女の子を不思議そうに少し眺めていたけれど、ふと、あることを思いついた。
 ……あの女の子に、話しかけてみようかな。
 それは、単純に好奇心から思ったことだった。
 ただでさえ人の気配の無い町で話しかけたらうさんくさがられるかもしれない。