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カヴァー=倉多江美
『倉多江美傑作選 ジョジョとカーキ姫』(サンリオ)/
初出『別冊少女コミック』(小学館)

 
 
 

 Kさんは学校から電車で40〜50分離れたU市に住んでいたが、たまたまKさんと話をしていると、彼女の住んでいる町は私のいとこが住む親戚の家の近くだということがわかった。小学生の頃、その親戚が家を新築したので遊びに行ったことがあり、彼女の家の位置がなんとなくわかった気がした。
「へー、広重くんが家の近くまできてたなんて」と、彼女も私が話すその町の風景の印象が一致していることに、なんとなく嬉しそうにしていた。
 すぐに席替えがあり、Kさんの席は私のとなりではなくなったが、休み時間になると彼女にひとことふたこと話かけいにいく私の姿は、すぐに悪友のGくんとMくんの目のとまるところとなった。
「おまえ、Kさんのこと、好きなんだろ」
 そんなふうにはやされ、照れてしまい、GくんMくんに見られているクラス内ではKさんにはちょっと話しかけつらくなってしまった。

 
 
 

2008.10.18 Sat

初恋の味

019

 新潟で、主催者の正福寺の笠原さんとライヴ前日に飲みに行った時、私の〝ファンタグレープの思い出〟の話をした。これも前の〝Yさんの思い出〟同様、どこかのフリーペーパーに依頼されて書いた原稿だが、その回の原稿データが見つからない。笠原さんにはブログで書きますと言ったので、思い出しながら再度書いてみました。まるっきり同じではないですが、こんな原稿だったと思います。
 
「ファンタグレープの思い出」
 
 中学1年生に入学してすぐのころ、クラスの隣の席にいたKさんに恋をした。入学した学校がキリスト教系列だったこともあり、朝の礼拝の時間の聖歌隊にもKさんは参加したりしていて、声もきれいで知的なKさんにクラスの他の男の子何人かもあこがれていたと思う。

 
 
 

 初夏、6月のことだったと思う。ある日曜日、バスと私鉄電車を乗り継いで、私はKさんの住む町にくりだした。なんとなく記憶があるものの、実際には親戚の家の場所も正確には覚えておらず、Kさんから聞いた情報を元に駅の周辺を歩いた。Kさんの家を探すつもりたっだのだが、もしかして駅周辺で歩いていれば、Kさんに道でバッタリ会うのではないか、そんな期待もしていたのだと思う。小一時間も歩いたろうか、私鉄沿線で踏切の近く、というKさんから聞いた情報をもとに家の表札を見て歩くも、いっこうにKさんの家は見つからない。もうあきらめかけたころ、畑をつぶして住宅地にしようとしている一角に、比較的新しい家を見つけた。表札を見ると……Kさんだ! ついにKさんの実家を見つけたのである。
「ここかあ」
 という、なんともいえない甘ったるい気持ちとともに、しかしドアホンを押す度胸のない自分に

 
 
 

017

すぐに気がついた。もう午後も遅くなり、そろそろ帰らないといけない時間帯である。どうすることもできず、少し離れたところからKさんの家を見上げていた。すると突然2階のベランダの戸がひらき、Kさんが顔を出した。「あっ」と思ったが、少ししてKさんもこちらに気がついた。「え?」という驚いた顔。私だと気がついたようだった。彼女はベランダから家の中に入ったので、ああ、これは玄関に降りてくるなと思い、私も玄関前に移動した。こちらがドキドキしているまもなく、玄関のドアが開き、Kさんが登場。
「広重くん! どうしたの?」
 私はとっさにこの町の親戚の家に来たのだけれど、そういえばKさんの家はこの近くだったなあと思って、と、偶然をよそおった。
「ふーん…あ、ちょっと待って!」と、Kさんはパタパタと走って家の中に。そしてすぐに戻ってきた彼女の右手にはファンタグレープの瓶が握られていた。

「広重くん、飲む?」
 
 のまいでか。
 初夏の少し暑い季節、初恋の人の家を探して小一時間歩いた、その私の喉をうるおすよく冷えたファンタグレープ。
 おそらく、いや間違いなく一生涯で一番おいしかった飲み物といえば、あの時に飲んだファンタグレープだろう。あの味以上の飲み物を、いまだに飲んだことはないと断言できる。瓶を返し、ありがとう、じゃあと、玄関を後にした。家に上がることもなく。
 少し歩いて振り返ると、手を振ってくれているKさんがいた。
 
 Kさんとはその後つきあうこともなく、クラスで特に仲の良い友人になることもなく、私の初恋は終わった。

 どうしてなのかわからないが、あの日、あの時、家を見つめていたらKさんが出てきてくれたこと、そしてジュースをもらったことで、なにかが完結したのではないか。その後、男女としてつきあって欲しいと申し出なかったことを後悔しないことはなかったと言えばウソになるが、むしろ特別な思い出になったことで〝十分〟だと思えたのだ。
 好きな人を思って見上げていたら、窓が開いて本人が出てきてくれることもあるのだと。
それはひとつの真実を見つけたことと等しい。
 それ以上を彼女に望むことは、私にはどうしてもできなかったのである。

 その後、もちろん何度となくファンタグレープを飲むことはあったが、どうしてもあの時の味にはならない。
 しかしファンタグレープを目にすると、今でも少しあの日のことを思い出してしまう。

016

 
 
 

 新潟・正福寺のライヴイベントの名前が『耳をすませば』というのは、私があの映画が好きで、ディーゼルの能勢山くんもあの映画が好きで、ということだったんですね。能勢山くんは特にあの映画のエンドロールが大好きだそうです。

2008.10.21 Tue

 
 
 

ちょっと中腰のようなスタイルになる。実はこれだとエフェクターを足で踏む作業がしにくい。足がつっぱるため、エフェクターを踏むには足をうんと伸ばしたり、イスから腰を少し浮かさないといけない。
 三沢くんはリハの時に「あ、もっと低いイスのほうがよかったかな」と思ったらしいが、私が何も言わないものだから、そのまま進行したそうだ。
 で、私のライヴのステージ本番。
 私はやはりエフェクター操作がしにくそうに演奏していたらしい。三沢くんはPAをしながら「やはりあのイスはまずかった」と思ったそうだ。私はイスを交換してくれとは言わず、ライヴは進行していく。そのうち、マイクスタンドがだんだん下がってきたらしい。
 私はイスの件はぜんぜん覚えていないが、このマイクが下がってきたライヴは記憶がある。といってもそのことに怒ったとか、そういう記憶はいっさいなく、三沢くんがこの話をしたので思い出した程度である。

 先日の池袋のライヴ終了後、LETTERの三沢くんといろいろ話をした。
 三沢くんはなんばのライヴハウス・ベアーズのブッキングマネージャーだったが、PAエンジニアをさせられることもあったらしい。ベテランの演奏者が出演する場合、たいていはメイン・エンジニアの保海さんが担当するのだが、ある日私がソロで出演する夜、急遽保海さんが休むことになり、三沢くんが私のライヴのPAをすることになったそうだ。「広重さん、ぜんぜん覚えてないでしょ」と、三沢くんに言われたが、はい、ぜんぜん覚えていませんでした(笑)。
 初めて私のPAを担当することになり、それだけで三沢くんは緊張していたという。
 その頃、私はステージでイスに腰掛けてギターを弾くスタイルで歌を歌っていた。そこでイスを出してくれと言われた三沢くん、比較的背の高いイスを出したらしい。つまり深くイスに腰掛けるのではなく、

015

三沢くんの記憶

 まあね、実際そのことがいいのかどうかは、私もわからない。
 でも与えられた環境で演奏するというスタイルは、確かにそのように貫いている気がする。
 例えば今月の上旬にあった新潟のライヴも、アンプの音量制限があったけれども、それはその環境ということで、その中でできるように、また効果的に使うようにして、演奏している。こういうことは経験から身についたもので、海外のライヴで相当いろいろな環境で演奏してきたことが勉強になったのだと思うよ。
 ライヴというものはまるで生き物で、リハをしたところで本番のステージもそのような音のバランスや同じ環境が再現できるとは限らない。お客さんの入りや、自分のコンディション、観客の反応でも音はどんどん変わる。野外ならもっと極端に環境は変わる。だからその環境にあわせて、エフェクターやアンプの状態も、ギターや歌の出し方も、演奏の仕方も臨機応変にかえていかな

014

 
 
 

三沢くんの記憶によると、マイクスタンドが下がってきて私はますます歌いにくくなっていたらしい。イスが高くて中腰、さらにマイクが下がってきたのでさらに上半身を前傾させるようにして歌っていたそうだ。そして最後までそのエフェクターを操作しにくそうな、歌を歌いにくそうな姿勢のまま、最後まで演奏しきったらしい。
 三沢くんは私のPAを初めて担当してそんな結果になり、なにか言われるのではないかと終演後ずいぶんビクビクしていたそうだ。しかし私は何も言うこともなく、「お疲れさまでしたー」と挨拶して帰っていったそうだ。三沢くんはいたく感心し、その後「広重さんは与えられた環境で演奏する人だ」というエピソードをいろいろな人に話しました、という話を私にしてくれた。
 はい、私はそのマイクスタンドが演奏中に下がってきたライヴは覚えていますが、それがどこだったかとか、PAが三沢くんだったとかは、ぜんぜん記憶にありませんでした。ははは。