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江戸時代末、西欧化のトップランナーとして海外に門戸を開いた函館は、昨年、開港150周年を迎えた。その町の原点ともいえる西部地区から函館駅前にかけての10平方キロにも満たないエリアに、150年間の町の記憶が残されている。
交易、造船、北洋漁業などにより、かつて北日本でいちばんの繁栄を謳歌した函館。この町の記憶とは、ハイカラ建築であり、赤れんがの倉庫群であり、造船所のクレーンであり、商業施設や歓楽街、教育・文化施設など、多岐にわたる。

開港150年 町の記憶

 
 
 

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だが、これほどの町も、時代の移り変わりの中で低迷しているという事実は否めない。具体的には、北洋漁業の終焉、造船業の衰退などがその大きな理由であるが、背後には、わが国の産業構造の変化と首都圏への一極集中という、地盤沈下を食い止めようにも、市民1人1人の手に負えないようなとてつもない時代の流れが存在するに他ならない。

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それは函館のみならず、千年の都・京都も然り、商都・大阪も然り、全国津々浦々の町が、同じ逆風にさらされている。地の利、土地柄、歴史、文化、風土。本来、その町の最大の武器となるはずのそれらを活かして再生を図ろうとも、時代の流れという逆風の方が、圧倒的に強大なのだ。

 
 

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さらに交通網の発達が、その逆風を加速する。函館においては2015年に新幹線が新函館まで延伸する。とはいえその駅は函館の西部地区から20キロも離れた市外である。それでも当分は函館に恩恵をもたらすだろうが、いずれ新幹線が札幌まで延伸すれば、函館は単なる通過点と化してしまう可能性は非常に高い。青函連絡船が運航され、函館が北海道の玄関を名乗れた時代とは程遠い状況がやってくる。

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JR函館駅の吹き抜けに掲げられた開港150周年記念バナー(2009年7月17日撮影)

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江戸幕府に開国を迫ったペリー。函館の歴史も、この人物の来航とともに始まった(2009年1月17日撮影)

定番の観光ルート、八幡坂に建つロシア系の学校。実際のところ、ペリーより先に日本に来たのはロシア人。函館も早くから、ロシアとの関係が深かった。この学校の教員は、もっとそのことを日本の人に知って欲しいと言っていた(2010年1月4日撮影)

函館の一大観光スポットとなった赤れんが倉庫群だが、一部は今も現役の倉庫。稼働するフォークリフトが、それを物語る。古い建物を再利用した成功例として知られるが、倉庫のままであり続けられる方が建物にとっては幸せかもしれない(2009年1月16日撮影)

明治11年、12年という連年の大火の後の明治13年に建てられた旧金森洋物店。厳重な耐火構造をとったため、その後の幾多の大火もしのいできた。設計、施工ともに日本人。当時すでに高度な西洋建築技術を体得していたことがうかがわれる(2008年12月9日撮影)

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かつての繁栄の中心だった西部地区には、主なき瀟洒な邸宅も少なくない(2009年8月9日撮影)

北洋漁業が盛んなころの大門地区は、巨大な歓楽街をなしていた。船団が出て行く際、また戻った際には、立錐の余地もないほど人が溢れたという。華やかな小路の名前に、往時の繁栄が偲ばれる(2009年7月1日撮影)

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