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岡田利規

 
 
 

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岡田利規 プレゼンテーション         11    
岡田利規×佐々木敦               35
 
岡田利規×桜井圭介               71
 
岡田利規×池田扶美代             103
 
岡田利規×ティム・エッチェル         121
 
チェルフィッチュ              133
『わたしたちは無傷な別人であるのか?』
出演者インタヴュー

 

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目 次

 
 
 

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チェルフィッチュ
岡田利規が全作品の脚本と演出を担当する演劇ユニットとして1997年より始動。チェルフィッチュ(chelfitsch)とは自分本位という意味の英単語セルフィッシュ(selfish)が明晰に発語されぬまま幼児語化した造語。02年『マンション』、04年『三月の5日間』(第49回岸田國士戯曲賞受賞)などを経て、日常的所作を誇張しているような/していないようなだらだらとしてノイジーな身体性を持つようになる。07年『三月の5日間』で初めての国外進出を果たし、08年には『フリータイム』をKUNSTENFESTIVALDESARTS2008、Wiener Festwochen、Festival d’AUTOMNEとの国際共同製作作品として発表。そして09年10月HAU劇場(ベルリン)にて『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』を世界プレミア上演し、2010年は世界11都市でのツアーが決定している。

岡田利規
1973年 横浜生まれ。演劇作家、小説家、チェルフィッチュ主宰。97年に「チェルフィッチュ」を結成し、横浜を拠点に活動。『三月の5日間』で第49回岸田國士戯曲賞を受賞。05年ダンス作品『クーラー』で「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2005 次代を担う振付家の発掘 」最終選考会に振付家としてノミネートされた。07年2月、新潮社よりデビュー小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』発表、翌年第二回大江健三郎賞受賞。また、日本の公共劇場の委嘱作品として安部公房の『友達』やデーア・ローアーの『タトゥー』の演出をてがけ、岡田独自の解釈による新たな作品の可能性に多くの注目を集めた。他劇団への戯曲提供も多数行う。またカンパニー作品は、国立国際美術館30周年記念公演、森美術館主催「六本木クロッシング展」、横浜トリエンナーレに参加するなど多方面へ活動を展開する。

 
 
 
 

 
 

2010.01.12@急な坂スタジオ

公開リハーサルに向けて

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岡田利規 プレゼンテーション

岡田利規 プレゼンテーション

 
 まず話を始める前に、作品を作っている途中段階であるにも関わらず、今回公開リハーサルとレクチャーいう形で人に向けて話すということをしたほうがいいだろうと考えたのは、"今"自分たちがやっていることが、それまでやってきたことと、かなり違うだろうということからです。
 もう少し具体的に言うと、おそらく僕たちチェルフィッチュが今やっていることは、いわゆる(平田オリザさんの提唱した)現代口語演劇ではないだろうと思っています。ただ、どうしても、チェルフィッチュはポスト現代口語演劇的な位置づけ、つまり現代口語演劇の継承者というように捉えられていることが多く、紹介されるときもやはり、「現代口語演劇をアップデートした言葉が特徴的なカンパニー」だといまだに言われることがある。
 でも、そうしたある一定のラベルを与えられることは、良い面もあるかもしれないけど、観る側もチェルフィッチュとはそういうものだと思って観てしまい、その結果、作り手と受け手の関係が硬直してしまうともったいない。僕たちは新しい次のステージに行こうとしているので、

 
 で、どこから喋ろうかな。「今やっていることはこういうことです」ということを話す前に、なぜこういうことをやるようになったのかという、その経歴みたいなものを、かいつまんで話せたらなと思います。まず、先程も言いましたが、チェルフィッチュは、というか僕のやっている演劇というのは、基本的にはその前の世代、主に平田さんが中心となってやっていた現代口語演劇というものにインスパイアされ、どうそれを展開していくかみたいな問題を抱えていたんです。各々の作り手が問題意識を自覚していたかどうかは別として、そういう問題が課題として与えられていた世代だった。その中で、僕は僕なりにあるアウトプットを出したとは思うんですよね。つまり、現代口語演劇の可能性というものを展開させたのだろうとは思うんですけど。
 そういうやり方をしていく中で、段々と袋小路感というか、行き詰まり感が見えてきたみたいな現実が、何年か前くらいから僕の中ではあったんです。まあ何年か前と言っても、僕が演劇の世界でちゃんとそれなりに知られるようになったのは、たかだか5年前くらいで、

現代口語演劇の可能性とナチュラリズムへの疑い

 
そのことを作品を観てもらうだけより、自分の言葉で説明したほうがより分かってもらえるだろうなという気持ちがまずひとつですね。
 あとは僕たちがやっているような、何て言うのかな、別に好きじゃない言葉の使い方をしますが、「分かりやすいわけじゃない演劇」というものをこれからも続けていくために、いろいろな危機感が当然僕にもあるわけで。まあそれはこういう世の中なので。その中でどうやってサヴァイブしていくかを考えているというのもあるといえばあるんですけど、まあそんな感じの諸々の思惑があって話したいと思ったんですね。

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岡田利規 プレゼンテーション

 
 

 
そのうちの後半の3年くらいだと思いますけど。
僕が感じた袋小路感というのは、何て言うのか、簡単に言ってしまえば、リアリズムという手法に対する疑いを持つようになったということですね。リアリズム、もう少し限定していえばナチュラリズムというか、そういう演劇に対する疑いというのが、あるとき芽生えたんですね。
 でも、これもちょっと不思議な話で、元々僕は、ナチュラリスティックな演劇じゃないとなんか信じられないみたいなところから始まって、そこからかろうじて演劇にアクセスできていたみたいなところがあったんです。たぶんこの感覚って、僕に特有のものではなくて、僕の世代の人はわりとそういう感覚ってあると思うんですよね。きちんと検証したことがあるわけじゃないけど。なんかこう、「演劇って嘘くさいじゃん」みたいな。でもそうじゃない演劇というのがあるんだと、そこで初めて自分と演劇の接点が生まれた感じがあった。つまり、平田さんみたいなナチュラリズムがもしなかったら、そもそも僕が演劇とこんなに関係することはなかったと思うんです。
 そういう出会いから始まったんですけど、それに対して疑いを持つようになってしまったのもまた事実で。

 
疑いというのは例えば、ナチュラルに舞台上でいることが本当に可能なのか、そもそも現実と舞台の上は違う場所なんだから現実と同じように舞台上でいることを目指すというのは、なんか無茶なことをやってるんじゃないか、不可能なことを可能だと思いこんでやろうとしているんじゃないか、そういうことをなんとなく考えるようになっていったんです。
 ただし自分のやっていることは、言い方によっては相変わらずナチュラリズムだとは言えるんです。ナチュラリズムと見えない人もいるかもしれないし、僕自身もそう見えないよなと思うときもあるけど、でも基本はナチュラリズムなんで、そのままだと先がないというか、面白くないなと思ったんですよ。自分が書く言葉は、例えば『三月の5日間』という僕の書いた戯曲は、若者の言葉をそのまま生き写しにしたみたいな、活写したという評価をされているわけで、それはもちろん適切な評価だと思うんですけど。
 では、その先に自分が書くものの可能性がどこにあるのかと考えると、それがあまり僕には見えなくて。例えば、どんどんどんどん若者の世代というのが新しく現われては、その都度言葉がアップデートされていくので、それにいちいち対応するのをひたすら続けていくのか? 

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岡田利規 プレゼンテーション

 

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これがその場で今あたかも行われているようにしていこうぜ、という方向で演劇をやるのは、演劇というものの捉え方がネガティヴというか。演劇の持っている特性を、ポジティヴに生かそうとしているんじゃなくて、それを誤魔化していこうというような発想になっているのかもなと、なんとなく考え始めた自分がいたんですよね。
『三月の5日間』に見られるように、現代口語の延長を、アップデートした言葉みたいな書き方をしてきたわけですが、僕がやっていたことというのは、大袈裟に言ってしまえば、そういった隠蔽工作への加担だったというような気が、あるときしたんですよね。つまり、その口語の出来をアップデートするということは、その分、隠蔽を首尾よくやるということだから、つまり、何て言うんですかね、それは非常にたちが悪いことと言えもしないか。そこまで過去の自分を全否定するわけでは全くないんですけど。なんとなくまあそういう風に考え始めるようなことが起こったんですね。

 
そんなことに興味があるわけでもない。超リアル口語みたいなことを言っていた時期もありましたけど、そういう言葉で書いたりすることからは、いずれ降りようという気持ちになっていったんですよね。
 そういう言葉の問題と、あともうひとつは、先程言ったナチュラリズム、つまり、本当にできるのかということをなんだかんだ突き詰めていった結果、表象するとはどういうことなのかと考えるようになったんです。演劇というのは、何か役であるとか、お話であるとか、場面であるとかを、舞台の上でやってみせるってことなんだ、ということにあるときふと、ごく当たり前のことに思い返った。ナチュラリズム・リアリズムというのは、結局そこで何かをやってみせているということを、隠す手法なんですね。「それ自体がそれなんだ」ということを目指していくという手法で。それは、なんだろうな……、それは問題があるんじゃないかみたいな(笑)。簡単に言うとね。そういう気がしてきたんですよ。演劇は、「やってみせている」ってことで、それそのものがここにあるわけじゃない、と。やってみせているにすぎないということをネガティヴに捉えちゃうと、それはじゃあ隠そうということになっていって。やってみせているだけじゃなくて、