夏休みがおしえてくれる  |  davinci

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

夏休みがおしえてくれる

 

『空中キャンプ』に変わった。一曲目の「ずっと前」のイントロのギターが聴こえてきたところで、耕太はちらっと清美のほうを見てみたが、こんどは目は合わなかった。 耕太が咀嚼したサンドイッチを飲みこみ、ミックスジュースに口をつけたちょうどそのとき、ミクシィをしていたモヒカンの青年———すなわち田辺は、美佐子に送るメッセージの文面を書いているところだった。
 田辺の夏休みが終わるまでのあいだに、京都市動物園にいっしょに行こうという内容のメールが美佐子から送られてきたのは二日前の深夜のことだった。つきあいはじめて間もないころ、京都市動物園にいる白いフクロウをテレビかなんかで見た美佐子が、見たい見たいといいだして、近くに美術館とか平安神宮なんかもあるし、現地では充実した一日になりそうやわあとうれしそうに話しているのを横で聞いていた田辺は、そしたら近いうちに行こっかと軽く請け合ったのであるが、けっきょくつきあっていた

都合のいい論理の飛躍であった。うわあ、と一瞬色めきたったが、仮にその可能性があったとしても、だからといって彼女と仲良くなれるわけでもなく、二人の関係性においてなんら発展はない。うわあ、とさっきとはちがったニュアンスで「うわあ」と耕太が思ったところで本田さんがサンドイッチをもってきてくれ、それを合図のように煙草を消し、そういえばこの前京ちゃんがモヒカンの友だちとモツ鍋に行くっていってたな、そのモヒカンといま横にいるモヒカンが同一人物やったりして、なんてことをぼんやりと思った。
 万全の体調であればカツサンドを頼んだところであるが、宿酔で胃もちょっと重いということで、トマトやモッツァレラチーズ、ハム、レタスなんかが入っているオーソドックスなサンドイッチを注文し、ふたつあるうちのひとつを手に取ると一口食べたところで店内の音楽がそれまでかかっていたスティール・パルスからフィッシュマンズの

というか「いま」に限らず過去においても未来においてもどうでもよくて、そんなことよりも現実の実際的な問題に話をもどすと、「夏休みが終わるまでのあいだ」ということは九月の中旬までということだから、あと二週間弱のあいだにということだ。「わかってくれてると思うけど、こんなことをいったからといってヨリを戻そうとか、最後の思いでづくりをしようとかではないからね。じゃあ、なんで? っていわれたらうまく答えられへんけど、もしいっしょに行くんやったらなんかいまがいちばんいいタイミングのような気がして」と美佐子自身が書いていたが、その感じは田辺もわからんでもなかった。なんとはなくだけど。
 メールの最後には「この前いってたオムライスがおいしいカフェの地図貼っとくね。ほんとにおいしいから、ぜひ一回行ってみて」とあって、グーグル・マップのURLが貼られてあった。その地図を頼りにその「オムライスが

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一年ちょっとのあいだにその約束は果たされることはなかった。
 お互いに納得したうえで別れることをきめたのがつい先日のことで、このタイミングでそんなことをいってくるのは場ちがいなような気もしたし、二人で京都市動物園に行くとしたらこのタイミングしかないんじゃないかなと思ったりもしたんだけど、どちらかというと田辺はその提案にたいして肯定的な気分で、京都市動物園にすっごく行きたいと思っていたわけではないけど美佐子にいまその話をもちだされて、隠した場所も忘れてしまっていたヘソクリの存在について教えられたような気分になったわけで———と思って、「ヘソクリ」の比喩は唐突というかちょっとニュアンスがちがうな、と自分で思ったことにたいして自分で物言いをつけたのだけど、じゃあどんな比喩がしっくりくるのかというと田辺もすぐには思いうかばなかったわけだが、いまはべつにそんなことはどうでもよく———

 そんなことを思いながらふたたび美佐子への返信メールを田辺が書きだしたとき、清美はジョン・アーヴィングの『ガープの世界』のある一節を読んで、長谷川から聞いたファンレターを送ってきた女の子の話を思いだしているところだった。それは、小説家である主人公のガープの本の出版を手がける編集者のジョン・ウルフが、カバーの折返しの文章を書く場面。本来ならカバーの文章も本人に書かせるのだが、「今度の本のガープの文章があまりに壮麗で陰気だったため」にジョン・ウルフが自分で書くことにする。そしてジョン・ウルフは、自分でも後ろめたいものを感じるどころか、それが「愚劣な文章」であると知りながら、小説の内容と最近ガープの身に実際に起こった出来事———すなわち、幼い息子の死のことを書き記す。清美が長谷川に手紙を送ってきた女の子について考えたのは、それにつづくつぎの文章を読んだときだった。
 

おいしい」と評判の南堀江にあるカフェにやってきて、田辺は噂のオムライスを食したあと、いまこうして美佐子に宛てた返信用のメッセージを書いていたのであった。地図のURLにつづいて、「オーナーの本田さんって人とも面識はあるねんけど、そこのお店にはわたしの友だちもけっこう行ってるから、もしかしたら偶然に会うかもしれへんよ」なんてことが書かれてあったのだが、オーナーの人ならまだしも、自分が知らない美佐子の友だちともし店内で会ったとしても、そんなものはわかりようないし、仮にわかったところでどうにもならないというか、人見知りの激しい自分としてはむしろわからないほうがいいくらいなんだけど、もしかしたら先ほどライターを借りようと声をかけてきた隣の男性が美佐子の知りあいのひとりかもしれないな、その確率は低いけど可能性がゼロなわけではないし。でも、もしほんとにそうだったとしたら不思議な感じがするというか、ちょっとおもしろいかも。

 

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 ガープの意見では、こういったことは本を読むさいの最も安っぽい動機であった。さらに、質問のなかで一番嫌いなものは、作品がどの程度ほんとうのことか、作品がどの程度〝個人的な体験〟に基づくものであるか、という質問であるともいった。〝ほんとう〟というのは、ジルシー・スローパーの使った深い意味ではなく、〝ほんとうの出来事〟というような〝ほんとう〟のことだ。いつも大いなる忍耐心と自制心を発揮しながら、ガープは、自伝的な基盤———そういうものがあればの話だが———は小説を読むときの最も意味の薄い次元であるといっていた。小説芸術は真実を想像する芸術であり、他のすべての芸術と同様、選択の過程であるというのが彼の持論だった。記憶や個人的な歴史———「記憶するに値しない我らの人生から寄せ集めた精神的外傷」は、小説の形態としてはいかがわしいものでしかない。「小説は人生よりもよく造られたものでなくてはならない」とガープは書いている。

 
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そして、彼のいう「個人的な苦難のいかがわしい積み重ね」———自分の人生に重要なできごとがあったものだから、著作までもが〝重要〟になってくる作家というものを、徹頭徹尾、嫌っていた。あることが小説に描かれる最悪の理由は、それが実際にあったことだから、というものであると彼は書いている。「すべてのことが、ある時、実際に起こったことがあるのだ!」と彼は激していう。「あることが小説のなかで起こる唯一の理由は、それがその時に起こる最も完全なものであるということでしかない」
 「あなたの身に起こったことを、なんでもいいから、ぼくに話してくださいよ」と一度、ガープは記者にいったことがある。「そうしたら、ぼくはもっと上手な話に仕立ててみせます。あなたの人生を実際以上にうまく語ってみせますよ」。質問をした記者は四人の小さな子供をかかえた離婚歴のある女性で、子供のうちの一人は癌で死にかかっていたから、信じられないといった面持ちで表情を

 

 ここに書かれているのは、大まかにいうと実際にあった出来事と小説のなかの出来事は別ものであるということで、そういったことを問題にするのは本質的なこととまったく関係がなく(むしろ遠のいていく)、それを混同することは小説というものを矮小に捉えてしまうことになるということだ。ここで問題にされていることと、長谷川に手紙を送ってきた女の子の問題とはまったくいっしょではないが、同質のものであるといえなくもないな、と清美は思った。
 手紙の女の子は小説のなかに出てきた人物のモデルが自分だといっているので、そのことがすなわち小説=現実にあったことと思っているということの証明にはならないけど(自分でも「モデル」っていってることだし)、だからといってその女の子がそのへんのことをきちんとわきまえているのかというとやっぱりそんなふうにも感じられなくて、長谷川から聞いたかぎりでは小説と現実での出来事とを混同していると感じられる節が多々あったりする。

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こわばらせた。ガープはそのいかにも不幸なようす、彼女にとってのその不幸の重みを感じ取って、やさしく、「その話が悲しいものでも———たとえきわめて悲しいものであっても———ぼくはそれをもっと悲しい話にすることができますよ」といった。しかし女性の表情には、とうていそんなことは信じられないといった気持ちがうかがえた。彼女はそれを書きとめてもいなかった。インタビューの一部として掲載されることもないだろう。

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それはまあどうでもいいというか、清美にとってはどっちでもいい話であるのであるが、その手紙の女の子をその手紙の女の子が手紙で書いてきたように本当にいま書いている小説のモデルにして、主人公である小説家の人物に「あなたが前に書いた小説のモデルはわたしだ」と手紙を送り届ける女の子を登場させるという長谷川の試みはおもしろいなと思った。それはまさしく「そうしたら、ぼくはもっと上手な話に仕立ててみます。あなたの人生を実際以上にうまく語ってみせますよ」とガープがいっていたことの実践で、実際にあったことを脚色して小説化するというその試みに清美は興味を惹かれたわけだが、そんなことをしたらその手紙の女の子は、まさに自分がモデルにされた! と有頂天になり、ますます現実と小説の世界をいっしょくたにしてしまうのではないのかな、なんてことを思ったりもした。
 そこまで考えたところでいったん本を閉じ、顔を上げてコーヒーに口をつけると、なんとはなしに目をモヒカンの

青年のほうにやった。テーブルの上にノートパソコンを出して、なにかを作成しているのか、キーをかちゃかちゃと叩いている。その作業をスーツを着たサラリーマン風の男性がやっているのであればなんの違和感もないのであろうが、カジュアルな格好をしたモヒカンの青年がやっているとやっぱりちょっとおかしな感じがするな……と思ってすぐに、いやおかしくはないわ、たしかにユーモラスな感じではあるけど、意外にしっくりきてるやん。ていうか、違和感があるとしたらモヒカンの青年がカジュアルな格好をしていることのほうなんだけど、何度か目をやっているうちにそれすらもなんだかしっくりと感じられるようになってきて、人間ってなんにでも慣れてしまうもんやなあと変なところで感心したりしながら、さてさて、どうしようかなと清美は思案した。なにを思案したのかというと、このまま本を読みつづけるか、ここでやめて家に帰るかということで、いまなんとはなしに本を閉じてしまったけど、

 

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閉じた箇所が章の区切り目でもないからせめて切りのいいところまで読もうかなと思ったし、普段なら必ずそうするんだけど、なんだかきょうは億劫な感じで、どうしようかなあと思いながらふたたびコーヒーに口をつけた。
 アイスコーヒーのグラスをもちあげた清美の姿を横目でとらえ、そろそろ帰るかもしれん、と耕太は警戒した。店内にいる彼女の姿をちらちらと盗み見ながら、どうやって彼女と仲良くなればいいんだと煩悶し、いよいよ彼女が店から出ていく段になってその想いはより強いものになったりしたんだけど、けっきょくなにもできないまま彼女が出ていってしまうというのがいつものパターンだ。で、きょうもそのパターンにはまっちゃいそうというか、このまま行くと確実になにもできないまま終わってしまうこと請け合いで、これまたいつものようになんとかしようと頭を働かせてみるのであるが、やっぱりいつもとおんなじでなんにも案はうかんでこなかった。

 どないしょう、どないしましょう、とひとりであわてふためきつつ、自分を落ちつかせようと耕太はミックスジュースを一口飲み、店に入ってから二本目の煙草をくわえると、先ほど本田さんにもらったお店のマッチで火をつけた。店内には『空中キャンプ』三曲目の「スロウ・デイズ」が流れはじめる。
 煙草をふかしながら、なんの具体案もないまま「どないしょう、どないしょう」とひとりでそわそわしているのは、はっきりいってアホであるよな、と耕太は自虐的に思った。しかも一回だけじゃなく何度もおんなじことをくりかえしているわけであって、学習能力がないというか、いい加減自分でも嫌になってくる。しかしながら、だからといって必死こいて方策を考えたら名案がうかんでくるのかというとそんなこともなくて、そもそもずっと前から必死こいてあれやこれやと考えてはいるわけで、考えても考えてもええのんがうかんでこないから困っているのだ。

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草原に出たら口づけを交わそう」なんて意味不明なことを口走ってしまうのとおなじくらい無茶というか、おかしなことなわけであって、そんな風にまわりの人たちから思われたくなかったからというか、そんなまわりの人の目のことを云々(うんぬん)する前にひとりの人間としてそんなことしちゃダメだよね、しかも知り合いの店で、っていうか、知り合いの店じゃなくても、なんてことを思って突発的にイマジンの一節を歌いそうになったのを堪えたわけなんだけど、どっちにしても、なんにしても、いまはしっかりと現実と向きあわなければならんのであるが、向きあったら向きあったですぐに八方塞(はっぽうふさがり)になってしまい、どないしようもなくなってしまう。まったく困ったことだ。こんなことでは延々おんなじことのくりかえしで、というかすでにこの一か月くらいはまさに堂々めぐりをしてしまっているのであるが、この悪い流れをどこかで堰(せ)きとめねばならぬ。てか、そういえば

ここまで来ると、なにか劇的なことでも起こらんかぎりこの状況は打開できんのではないかと思われたりするのだが、こちらからは動きようがないから劇的なことが起こるとしたらその発端は相手の女の子からということに理論上はなるわけなんだけど、いくらなんでも向こうからこっちになにかを話しかけてくるなんてことはそれこそありえない。もし本当にそんなことがあったとすれば、文字どおり劇的なんだけど、そんな夢物語に期待するほどまでには夢想家ではない。と思ったところで、「ぼくのことを夢想家だというかもしれない/でもぼくひとりじゃない」というイマジンの一節が頭にうかび、「ゆめっせーい、あぃまどりまー」と突発的にその部分を歌い出しそうになったんだけどもちろんそんなことはしなくて、なぜそんなことをしなかったのかというといまここでそんなことを実際にしてしまうと変態と思われるか、よく見積もっても奇人くらいには思われるわけで、それっていますぐ立ち上がって文庫本の女の子のところにまでいって「ラズベリーブルーの