ケンチクノ BCCK  |  matsuzaki

 

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ケンチクノ
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2009221

建築の現場、今昔

 建築の仕事をしているので、言ってみればものづくりを飯の種にしている人間の一人だ。

 しかし、実際つくるのは大工さんや職人さんなので、正直、自分の手が何かを生み出すわけではないのだ。

 つくるための図面を書く。どうしたらそれがつくれるのかを考える。あくまでも、つくるのは自分ではない。

 このまだるっこしさは、映画監督とかに近い感じなのかもしれないと思うことがある。

 ただ、たとえば地獄の黙示録なんかの裏話を読むと、映画の編集というのは相当に即興性の高い作業のようでもある。最後に結末が変わるという話もよく聞く。

 数年前までは建築の現場もそういうところがあった。図面はあるにせよ、少しでもましな「本物」にしようと日夜改良に励む。設計がいい加減というわけではない。

 今は法制度が厳格化して、図面と寸分違わず完成させることだけが求められるようになったので、そういう現場の努力は必要とされなくなったし、出来なくなった。

 設計者にとっては、ますます作っている実感が希薄になってくるのだ。設計と施工が一丸となった現場こそがものづくりを体感できる貴重な時間だったのだけれど。

 もちろん、いい絵コンテあってこそのいい映画なのだから、設計段階で今まで以上に頑張るしかないのだ。

 
 
 

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ケンチクノ
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 日本文学の中で、なにか好きなものを選べと言われたら、あまり評判のよくない「枕草子」がどうしても一番に思い浮かんでしまう。春はあけぼの。

 我が国は(少し大げさだけれども)武家の台頭以降、いわゆる男性的なものが支配してきた。もちろんいまや男性的などという言葉は風前の灯火のようでもあるが。

 そんな文化基盤のなかでは「枕草子」の評価はどこか女々しいものとして軽んじられてきたのだと思う。

 女々しい、という言葉自体のネガティブな響きこそが男性的文化の象徴だったとも言える。

 皮肉なことに千年前の現実がまるで昨日のことのようによみがえる文章のリアリティは、その女々しさゆえに書き残されえたものだとしか思えないのだ。

 そこに見えるようにありありと描かれる景色や人々の有様が、千年の時がほんの束の間だということを教えてくれる。すべては、おかし、わろし、だけでいいのだ。

「摩天楼の反対物であり、ピラミッドの反対物であり、固定化し、化石化した芸術作品の反対物であり、つまり生命そのもののように自由で、はかなく、傷つきやすい何ものかを作り出そうというものであった」

 ニキ•ド•サンファールのパートナーとしても有名な、ジャン•ティンゲリーを評して書かれた一文も、まさに男性的なものへのアンチテーゼのように感じられた。

「枕草子」的な。

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2009220

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 建築という仕事をはっきりと意識したのは1983年のことだった。バックミンスター・フラーという偉大なる巨人が世を去った、という科学雑誌の記事を目にした。なんとなく、何かをつくる人間になりたいなと思った。

 フラードームで有名な構造家として知られているが、実際は地球の未来を真剣に考える科学者であり思想家であり、教育者であったのだと思う。

 彼は建築家という存在を情緒的で古めかしい非科学的な愚かな存在と考えているようだった。残念ながら世の中にはポストモダンと呼ばれる引用主義的な建築が全盛であったこともあって、フラーの言う通りでもあった。

 そんな反動からなのか、時は「ハイテックスタイル」や「デコン」など現代科学や現代思想の概念をそのまま建築に応用する手法が流行の兆しを見せ始めてもいた。

 これから建築を学ぼうと漠然と考えていた自分には、このポストモダンやハイテクはひとつのファッションとしか思えず、逆に建築を真摯に考える動機にもなった。

 そんなわけで、つねに興味は原始的なものや、土着的なものや、伝統的なものに向かった。いわゆる現代建築にはあまり期待をしていなかったのである。

 こんな感覚は、現代建築の寿命があまりにも短いせいではなかっただろうか。まじめに考える対象ではない、というように思えたのである。そうであればできるだけ
軽く、簡単に、のほうがよっぽどいいくらいだ。
 

 

2009219

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ケンチクノ
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序文

 
 
 

 建築という仕事は実に楽しい仕事なのだ。ほとんど、仕事ということを忘れてしまうくらい楽しい。

 それはたぶん夢を実現する作業だからだと思うのだ。
夢を実現するのなら文学や映画やその他の芸術でも可能ではある。しかしそれらの作品は建築ほど具体的な実体を持たない。現実の仮の似姿のようなものだと思う。

 オートクチュールの服や焼き物の食器や工芸的な家具などのほうが、建築に近いのかもしれないと思う。

 長いこと設計という立場で建築をつくりあげる現場に関わってきて、いろいろなことを学ばせてもらった。

 数多くのつくり手、職人と呼ばれる人々や、タイルや石や金物などの材料をつくる人々や、それらをまとめる工務店や、それと、なによりも、理解ある多くの建主によって、多くの建築がつくられてきた。

 もちろん偉大な先達の建築や、その設計図やスケッチや、多くのエッセイやインタビューや著作物からも学ぶことはできるが、現場での体験は、そういう知識からは得ることができないとても貴重なものである。

 仕事の中で多くの尊敬すべき人々と出会い、数多くの示唆をもらったが、結局、建築は形あるただの「もの」にすぎないのだというように感じられるようになった。

 そういうわけで、どうやってつくるか、ということを考えるのが設計の仕事だと、今は考えているのだ。

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2009219

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ケンチクノ
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作成日:2009 年 02 月 19 日

  • 著者:松崎 宏二
    発行:松崎 宏二

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