ケンチクノ BCCK  |  matsuzaki

 手がなにかを描く瞬間に、頭がちゃんとなにかを考えているか、というとそうでもない。デザインする理屈というのは、そうそう明確ではない。ただ単一の材料で、パターンがなく、自然地形のように歩き回れる丘のような建築、というものは小さいころから好きだったように思う。それを表層だけでやろうと思っても無理がある。いま建築中の横幅210m、高さ60mの巨大建築だ。

ケンチクノ
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スケッチを描く3

(理屈がなくても半ば無意識に絵は描ける。衝動みたいなもので手が動く)

20091124

 
 
 
 

009

drawing | koji matsuzaki

スケッチを描く2

(こうやって見るとコルビュジエっぽくもある)

010

 
 
 
 
 

drawing | koji matsuzaki

20091124

ケンチクノ
BCCK

 すでに設計が終わった建築のファサードデザインだけ考えてくれというような話もある。前にも言ったスキンジョブみたいなオーダーだ。エレベーションというものは内部空間の表出だと思っているので、そういう注文に応えるのは無理なのだ。だからどうしても考えろと言われれば、できそうもない絵を描く。でもほんとうは少しだけ「できるといいな」と思って描いているのである。

スケッチを描く

(これはそういう類いのスケッチだが、案の定ボツになった)

 

011

ケンチクノ
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20091124

drawing | koji matsuzaki

 
 
 
 

20091124

 空中庭園というアイデア自体は新しいものではない。なにがなんでも高くしなくても、容積が取れれば事業的にも問題ないし、階数を抑えると有効率を上げることにもなる。エレベーターの台数も少なくてすみ、1フロアの面積も大きく取れる。せっかく地上に空地があっても利用されなければ意味はない。ビル風が吹抜ける寒々しい広場があっても町の環境にはまったく寄与しない。

 
 
 
 
 

012

超高層はいらない

ケンチクノ
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(空地の代りに容積ボーナスをという制度は、都市計画的にどうなのだろう)

drawing | koji matsuzaki

(表層をことさら格好よくしようと思ったことはない。ほったらかしである)

 そういうわけで、プランだけ考えるといっても、同時に立体的な構造も考えているのが実際の設計作業なのである。立面だけ別にデザインするという設計はしない。

 これはキュービックなフレーム状のストラクチャーの中に店舗や事務所が立体的に配置されるという複合ビルのコンセプトを示すために描いたラフスケッチである。

 フレームの中には半屋外空間となるヴォイドを随所に挿入して、普通ならただの塊となるはずのビルを空間で文節し、スカスカの穴だらけにしてしまう考えなのだ。

 単純な箱でしかなかった高層ビルにいたるところ地面をつくり、ちゃんとした外部空間(庭やアプローチ)を提供しようというものである。植栽もしっかりつくる。

 塔状の超高層ビルの欠陥について以前にも書いたが、この計画はそれほど高くせず、敷地いっぱいに建てる。しかしポーラスな構造によって周囲を圧迫しないのだ。

 最上階の屋上庭園も広い面積になる。プロポーションはずんぐりしているけれど、むしろこれでいいのだ。

 もちろんこれはある一つのビルのための提案だけど、街区全体がこういうつくりのビルばかりになってもいいと思って考えた。似ていて、ちょっとずつ違うのだ。

 珍妙な形状でビルの個性を出すのも自由だとは思う。でもその競い合いはどうも賤しい気がする。内部空間の豊かさと無関係な、単なるオブジェだとしか思えない。
 

ケンチクノ
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20091123

drawing | koji matsuzaki

013

 
 
 
 
 

ある一つのビルのための提案

20091123

(最近のビルはなんだかプロポーションがおかしい。だから風景もおかしい)

drawing | koji matsuzaki

 
 
 
 
 

014

 プランを考えながら、頭の中ではだいたいの外観図が出来ているけれど、それが見栄えのいいものかどうかははっきりつかめていないのが正直なところである。

 なぜならプランというものは敷地に固有の法的制限のぎりぎり上限を狙って、最大容積率を確保しようとするものなので、それほど優雅な、創造的作業ではない。

 避難計画や防災設備や構造スパンの制約、身障者対策や各種の条例、総合設計などの諸問題を解決しながら、有効率の高い(貸室面積の大きい)プランを捻り出す。

 しかも数々の行政折衝を繰り返しながらようやく辿りついたところで、構造設計の評定を受け、もはやなんの後戻りもきかない段階になってはじめて立面に気づく。

 …なんていう話があながち大げさでもないのである。
もちろん姿形は気にしていても、姿形からプランを決定するということは実際できない。事業性が優先する。

 だから内心、不格好なプロポーションだなと思いつつも、それはしかたないので、なんとかそれが見栄えよくなるように工夫するしかない、と思ってデザインする。

 しかし、それも限界がある。だから世の中にはひどい不細工なビルが次々と建っていくのである。気にしてはいられないのである。それが悲しいかな、現実である。

 建築の設計はそんなことであってはならないと思う。表層で取り繕って済む問題ではない。と、思うのだが。 

   

ボリュームチェックという作業

ケンチクノ
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drawing | koji matsuzaki

20091122

(商業空間というのは、いかようにもつくりうるので逆に正解がなく難しい)

交換が可能なファサード

 同じ建築が、表層の状況が変わるだけでまったく別の
環境をつくりだすということはありうる。建物そのものを建て替えなくても十分都市空間は変えられるのだ。

 建築の表層はその内部空間と無関係に存在するものでは決してないけれど、変更や交換が可能なファサードというものはいくらでも考えることができる。たぶん。

 構造躯体を生かして外装や内装だけリフレッシュするという工事はよく行われることだけど、それをことさらやりやすく配慮した設計がされているビルは少ない。

 特に外装に関しては交換可能なエレメントとして設計されたことはほとんどなかった、と言っていいと思う。

 外装のデザインが陳腐化して建て替えるということはよくあることで、悲しいけれど、流行に影響されやすい商業施設などではかなり頻繁に行われていることだ。

 外装のリニューアルというと、だいたい既存の外壁の上に新たな外装材を重ねるというやり方で済ますことが技術的には多いのではないだろうかと思う。

 新しい下地を組んで上張りすることになるので、壁は厚くなるし、荷重も重くなり、合理的ではない。それをもっと簡単にできるような構造が考えられると面白い。

 当初、潤沢な予算がない場合は簡単に済ませておき、事業が軌道に乗ってから外装材にお金をかける、というようなスタイルも考えられるようになると思うのだ。

 

 

   

 

015

ケンチクノ
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016

(1975年の数寄屋橋、有楽町。いま、マリオンとイトシアに変わったところ)

20091122

photo|koji matsuzaki

ケンチクノ
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集合体としての都市の風景

 世界には「多様性」や「対立」が必要だということはR.ベンチューリではないが、そんなものだと自然に思える。隅々まで計画通りのものなど魅力的なはずがない。

 ほっとけば自然に調和するんだよということで、勝手気ままにデザインされているビル群の風景がそれなりに肯定されている現状も理解できないわけではない。

 作為のなさが面白さになる場合もあるが、自然な調和にもある程度の限界がある。もっと積極的に調和を図るアプローチがあってもいいのではないか、とも思う。

 EURみたいな都市に否定的になる気持ちも分かるが、自然な集落を構成する建築が同じ素材や同じ言語でデザインされていることに嫌悪を感じる人は少ないはずだ。  
 現代の都市がそういう方向でデザインされても面白いと思う。つまり、素材、色、言語、形状、高さ、などのなんらかの要素を共通させるという「ルール」だ。

 集積するもののデザインという視点が建築には欠けている。民主的でない、という抵抗感もあるが、それほどルールをつくることに過敏にならなくてもいいと思う。

 貴重な大資本を投下して建設される社会的資産なのだから、価値を最大化するような協調をしても悪くはないはずだ。その昔、都市は集合体としてつくられていた。

 ただ政治でそういうことを制度化されると、やっぱり抵抗感があるだろうなとも思う。難しい話なのである。