夏休みが教えてくれる  |  davinci

夏休みが教えてくれる

でも、どんなかたちであるにせよ、中川さんが書いた小説の中にわたしのこと(わたしをモデルにしたこと?)が出てきたという事実は、そのこと自体はすごくうれしいことなんじゃないかなと思いました。と、こうしてあらためて書いてみると、冷静な感じで、その喜びをじっくりと噛みしめるように味わっていたかのような印象を与えてしまうかもしれませんが、本当のところはそんな感じではぜんぜんなくて、じわじわ喜びが自分の中に広がっていき、それがどんどんどんどん大きくなっていって、最終的には飛び上がるほどうれしくなって、意味もなくそこら中を走りまわりたいような気分になりました(もちろん、実際にはそんなことはしませんでしたけど。でも、それくらいうれしかったのは事実です)。
 べつに直接わたしの名前が小説に出てくるわけじゃないですけど(その前に、今回の掲載分にも「その人は偽名で手紙送ってきてんねやんか」ってあったように、

中川さんはわたしの本名とか知りませんもんね)、この前の「ヨシダさん」の話のときとはちがって、今回の場合は小説のここの部分って具体的な箇所を挙げて、わたしが中川さんに送った手紙の内容と小説の文章がリンクしている箇所とを照合することができるじゃないですか。あの連載を読んだほかの多くの人たちは、中川さんの小説の内容が実際にあったことなのか、完全なフィクションなのか、そのほんとのところはわからないと思いますが(そもそも、そんなことを考えたりしないのかもしれないですけど)、すくなくともわたしひとりはその事実関係がわかっていることになるじゃないですか。といいますか、自分が実際にやった行動(中川さんに手紙を送るということ)が小説の中に反映され、その内容もリンクしてるということを目の当たりにすると、さっきもいいましたように驚きや、恥ずかしさ、そして喜び、いろんな感情がやってきて、なんだか不思議な気分になりました。

ブンゲイ ダ・ヴィンチ
 
ブンゲイ ダ・ヴィンチ

 ちょっと興奮してしまって、取り乱したような感じになりましたが、現在連載中の小説の話に戻りますと、「長谷川」のつぎに誰が出てくるのかがやっぱり気になるところなんです。わたし的には前にもいってましたように、このつぎに「ヨシダさん」が出てきたらうれしいなあと思っています。今回掲載分の最後に「清ちゃん」って名前が出てましたが、たぶんつぎはその「清ちゃん」が中心人物になるんだろうなと予想を立てているのですが、その「清ちゃん」っていうネーミングは、名字から取られたものなのか、下の名前から取られたものなのか、どっちなんだろうっていうのがすごく気になります。なぜかといいますと、もし下の名前だったら名字はまだわからないということで、それが「ヨシダ」である可能性もあるわけですし(前回の作品で「ヨシダさん」の下の名前は出てきませんでしたしね!)、もしそうだったとして、「清ちゃん」=「ヨシダさん」だったらいいのになあと、ひそかに期待しています。
 と、またまた勝手なことをいろいろと書いてしまいましたが、いまわたしが話題にしたようなことは、

 と、またまた勝手なことをいろいろと書いてしまいましたが、いまわたしが話題にしたようなことは、どうなるか作者である中川さんは全部わかっているわけで、そんな作者本人に向かって、ああだこうだといってしまって恐縮しています(そういえば、前のときも釈迦に説法のようなものですね、みたいなことを書きましたね。ただ、知識をひけらかそうとか、中川さんになにか意見しようというのではなく、こうなったらいいなあっていう、わたしの願望を書いているだけですので、大目に見ていただけると幸いです)。
 なんだかいつもにも増して長々と書いてしまって、すいません。今後の連載も楽しみにしていますので、がんばってくださいね(次回掲載分はいままで以上に期待というか、楽しみにしています)。それと、前回の手紙でわたしのメールアドレスを記しましたが、失礼だったでしょうか? もしそうだったとしたら、申し訳ございませんでした。

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 それでは、また。これからのますますのご活躍に期待しています。
                                フジタ エリコ

 一読し、いろんな意味でおもしろい手紙だなと思った。純粋に楽しい! とかではなく、あくまでいろんな意味でだけど。
 連載五回目の文章を読んだフジタさんから、その後すぐに手紙が来るはずと予測していて、その内容というか、反応の仕方としては、どちらかというとぼくにたいして批判的なもの、もっというと逆ギレみたいな感じのことをいってくるんじゃないかなと思っていたんだけど、フジタさんはこっちの想像を上まわるポジティブ・シンキングをかます人のようで、前向きに捉えてくれているというか、喜んでくれているというか、いずれにしても怒ったりはしていないようである。
 フジタさんが指摘してたように、今回掲載された「長谷川」のところにファンから手紙がやってくる件(くだり)の元ネタはフジタさんからの手紙なんだけど、小説の中での「長谷川」と「美佐子」のやりとりを見るかぎり、

そのファンからの手紙のことについては批判的とまではいわないまでも好意的でないことはたしかで、フジタさんがさんざんこだわっていた「ヨシダさん」=わたし(フジタさん)という構図についても「その小説書いてるときに登場人物に関しては誰ひとりモデルとかは想定してなかったから、どっちにしてもその人の思いこみやと思うねんけどさ。っていうか、仮定の話じゃなくて、作者のぼくがいってるねんから、確実に思いこみやねんけどね」という文章によって、その可能性を一蹴しているし、それにつづく「美佐子」の「うわ。やっぱり、そんなの送ってくる人とかおるねんなあ」という一言は普通に読んだら「やっかいな人もおるねんなあ」ってニュアンスだし、実際にそのようなニュアンスを出すためにぼくはその会話文を挿入したわけなんだけど、これだけ書いたらさすがに張本人であるフジタさんは「迷惑がられている」と自分を責めさいなむか、その自分を責める気持ちが逆の方向を向いて、

 

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ブンゲイ ダ・ヴィンチ

ぼくにたいして批判を浴びせてくるかのどっちかだと思ってたんだけど、蓋を開けてみると、フジタさんはどちらかというと喜んでいた。はしゃいでおった。
 小説の登場人物である「長谷川」のことを作者であるぼく本人ではないのかとかいっている一例からも、フジタさんが現実の世界と小説の世界をいっしょにしている(とまではいわないまでも、それに近いものを感じている)と仮定でき、すくなくとも実話をもとにしてぼくが小説を書いていると思っているだけならまだしも、実話=小説と思っている節がなきにしもあらずな感じで、それはそれでしょうがないというか、フジタさん自身がそのように思っていることをぼくはどうしようもないし、どうにかしようと思っているわけでもないし、仮にどうにかしようと思ったところでどうしようもないわけなんだけど、前回アップされた文章のなかに小説家(長谷川)に宛てて「前の作品の登場人物のモデルはわたしかもしれないです」みたいな手紙を書いたファンの女の子の話が出てきて、

それにたいして登場人物(長谷川&美佐子)は批判的な態度をとり、その女の子が小説のモデルであるということも完全に否定するわけなんだけど、フジタさんはそこのところだけ「どうせ小説で書かれてることなんて事実を脚色してるわけであって、全部作者の妄想であったり嘘であったりするねんから」と都合のいい解釈をしているのかもしれん。その解釈自体はまちがいでないと思うんだけど、フジタさんの場合、そのほかの箇所は「実話=小説」みたいな感じなのに、その一部分だけ「嘘&妄想=小説」と思っている感じで、実際に手紙にも〈「長谷川」(=中川さん?)が「登場事物に関しては誰ひとりモデルとかは想定してなかった」っていってるのを読んで、なんだか恥ずかしいような気にもなりました〉と書いているそのすぐあとに、〈でも、わたしもまったくなんの根拠もなくそんなことをいっていたわけではなかったのですが〉とか書いてる。すなわち、作者であるところのぼく自身が「ヨシダさん」に実在するモデルはいないといってるのにもかかわらず、

 

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どうやらフジタさんは腑に落ちていない様子で、なんだったらそれに反論するための証拠というか根拠をもってすらいるような感じなのである。
 ぼくが書いた小説のことについてぼくが語っているんだから、その信憑性(しんぴょうせい)は疑いようがないでしょうって感じだし、客観的に見てもそれなりに筋のとおった意見であると思うんだけど、もしそこにあえて反論をするとして、その意見の拠りどころとなるのは「ぼくが書いた小説のことについてぼくが語ってる」媒体が、その発表の場が、小説であるということだ。「ヨシダさんには実在するモデルはいない」と小説でいったところで、そもそも小説に書かれてること=真実・実際にあった話なんて方程式がなりたたないわけだから、その段でいくと作者であるところのぼくが小説の中でいくら「ヨシダさんには実在するモデルはいない」といったところで、そのこと自体を実証したことにはならないわけだ(フジタさんがそこまで考慮してるのかどうかは知んないけど)。

 だから、ぼくがフジタさんにたいして、小説という媒体をつかって「きみはぼくの小説に登場したヨシダさんのモデルではないですよ」ということを伝えようとしたって、それは不毛なことである。ただ、不毛なことではあるんだけど、もしぼくが自分が書いた小説について評論家の方なり一般の読者の方なりになにかをいわれたとして、それにたいして何事かをいおうとした場合、それを発表することのできる場はやっぱり小説という媒体しかないのだ。たとえばこれが、ぼくがノンフィクションの暴露本を出したとして、その内容について暴露された本人から「事実とちがうやんけ。どういうことやねん。なに捏造しとるんじゃ、こら! おら! どつきまわすぞ!」とからまれたりした場合、いや、かくかくしかじかで、これこれこうでしょ、と実際にあった出来事を元になんなりと反論することができるんだけど、ぼくが書いているのはあくまで虚実ないまぜになった小説であって、その小説に向けられた意見にたいして書いた本人であるぼくが、

 

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たとえばフジタさんに教えられたメールアドレスに「実際はあなたがモデルじゃないんですよ」なんてことをいったところでしょうがない。意味がないのである。
 というわけで、フジタさんが「ヨシダさん」のモデルではないということをぼくは小説のなかで実証しようがないんだけど、そもそもそんなことを実証するつもりもなく、フジタさんが「ヨシダさん」のモデルであるとかないとか、フジタさんが自分は「ヨシダさん」のモデルであると思いこんでいることとか、そのことをフジタさんがぼくに手紙で書き送ってき、それを元にしてぼくが現在連載中の小説にその手紙のことを書いたこととか、全部が嘘といえば嘘といえるし、まさに虚実ないまぜになった感じであるわけなんだけど、なにが嘘でなにが本当のこととか関係なく、それらのことを小説に書くということ自体がすでになにかしらのものを生んでいる(と、ぼくは思う)わけで、フジタさんも今回の手紙からうかがいしれる限りではまんざらではなさそうな感じだったし、

 

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ブンゲイ ダ・ヴィンチ

そういったすべてのものを巻きこんで小説として消化していってやろう、とことん遊んでやろう、なんてことをぼくは思った。
 つぎのアップは今月の第三木曜日の予定。締め切りまであんまりというかほとんど時間はないわけで、そのような状況のなか急に変更するのは大変やなあ、なんてことを思いながら、前回分同様すでに出来上がっている原稿に大幅に手を加え、しかしながら前回そのようにした時点で今回も当然変化を加えなきゃならんのは必然的なことというか、あらかじめわかっていたことであって、とにかくやらないとしょうがないよねと自らを鼓舞し、一時間置きにコーヒーを飲みながら、「ワード」の画面をにらみつつキーボードを叩きつづけた。
                  (続)

Mitsuru Nakagawa

夏休みが教えてくれる
  • 著者:中川 充
作 成 日:2009 年 02月 05日
発   行:中川 充
BSBN 1-01-00022286
ブックフォーマット:#429

なかがわ・みつる●1977年、奈良県生まれ。2006年、ネット上に掲載された短編『POKKA POKKA』への読者投票を経て、第1回ダ・ヴィンチ文学賞編集長特別賞を受賞。07年に初の単行本『青空チルアウト』を、08年には文庫『POKKA POKKA』を刊行した。

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