架空名義  |  AoyamaKazuki

 

青山 一樹

架空名義

青山 一樹

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架空名義

 ざわざわと騒がしい居酒屋の奥まったテーブル席で、吉田浩一は同じ職場の久寺隆弘とビールを飲んでいた。
 日本全国に店舗をもつアパレル販売会社の新宿店に勤めるこの二人は、同い年ということもあり仕事帰りに酒を飲む機会も多い。
 このところ春の新作への入替え作業で残業続きだったため、今日は久しぶりに二人で飲もうと、会社近くの居酒屋に来たのだった。
 仕事帰りの居酒屋では、酒の肴は会社への不平不満と上司の悪口、と昔から相場は決まっている。最近の話題はもっぱら柴崎幸市のことである。
 先月のはじめ、表参道の本社から異動になって来た柴崎は、浩一や隆弘と同じ二十八歳の若さで店長代理である。会社のオーナー一族でイギリス留学の経歴から、英語は堪能、留学中にフットボールで鍛えた身体は、がっしりと絞

まった筋肉のわりに細身の体型である。背も高く、ルックスも申し分ない。店の女の子たちは、いつも羨望の眼差しで柴崎を見つめている。同じコウイチでも雲泥の差であった。
「生、ふたつね!」
 隆弘はビールの追加注文をすると「おい、知ってるか?」と、皿に残った枝豆を突ついている浩一にいった。
「何を?」
「美沙絵だよ」
「彼女が、どうかしたのか?」
 二階フロアにいる二つ年下の美沙絵は、学生時代に雑誌のモデルをしていただけあって、新宿店では一番の容姿を誇る。当然、美沙絵を狙っている男性従業員も多く、彼女目当てに来店する客も少なくない。
「それがさ、洋子から聞いたんだけど、どうも柴崎とつきあっているらしいんだよ」

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「美沙絵が?」
 同じ店に勤める隆弘と先月婚約した洋子は、来月いっぱいで退職し専業主婦となる。まだ公にはしていないが、洋子の妊娠で結婚を決めたと、隆弘は浩一にだけ言ったのだった。その洋子は美沙絵と同じフロアで働いている。
「よくやるよな」
「不倫、ってヤツか」
「いや、まだ結婚しているわけじゃないから、不倫にはならないんじゃないか?」
「それじゃ二股?」
「どちらにしても羨ましいやら、悔しいやら」
「お前には洋子ちゃんがいるじゃないか」
「そうだけどさ。そりゃ羨ましいだろう」
「そんなもんなのかな」
 美沙絵は確かにいい女かもしれないが、浩一はあまり興味がなかった。何かテレビか雑誌のなかの人間を見ているようで、どうも現実感が沸かないのだ。
「柴崎の婚約者っていうのも、かなりの女らしいぞ」















「見たのか?」
「洋子が退職の手続きでこのあいだ表参道の本

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「見たのか?」
「洋子が退職の手続きでこのあいだ表参道の本社に行っただろう。その時に、柴崎と一緒に凄い美人が役員室から出てくるのを見たって。その女だよ、間違いないな」
「へえ」
「何だ、気のない返事だな」
 所詮は他人の婚約者である。柴崎が誰と婚約しようが、浩一には関係がない。
「でもそういうのはさ、終いには泥沼化してどっちかの女に刺されたりすんだよ。ほら、テレビの二時間ものでよくやっているだろう」
「三角関係の縺れってヤツか。それもいい気味だな」
 二人は他人ごとでありながらも、気持ちの隅では柴崎を羨ましく思い、嫉妬すらしていた。
 新宿からの帰り道、浩一は電車の中でぼんやりと中刷り広告を眺めていた。まだやっと二十歳を越えたばかりのタレントが、渋谷の何処だかに、何億円もする豪邸を建てたらしい。他の広告に目を移すと、どの週刊誌もその話題を書

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たりから咲き始め、今週末には満開の見頃を迎えるだろう。自分の部屋での花見酒はまた格別だ。
 ふと気がつくと、山手線のガード下に小さな机と蝋燭が一本見える。近くに寄ってみると、机の前に占いと書かれた紙が貼ってあった。この場所は繁華街からは離れているので、夜になると人通りは少ないただ、昼間は慢性的に渋滞している大通りを避け、ここを抜け道として通る車も多く、交通事故が頻繁に起こる。昨日の夕方も、会社帰りの若い女性が死亡する事故が起ったばかりだった。
「こんなところで占いなんかやっても、客なんか来ないだろうに」
 机や椅子を置き去りにしたまま何処に行ったのか、占い師の姿は見えなかった。
「ほら、一人来た!」と、真後ろから声がしたので、心臓が飛び上がるほど驚いた。
 振り返ると、そこには昔話しにでも出てくるような、皺だらけの小さな老婆が立っていた。
「何だよ、びっくりするじゃないか」

き立てているようだ。同じ渋谷でも、浩一の住む2Kの安アパートとは天地の差だ。
 自分はどうして、柴崎やこのタレントの側に属さないで、こちら側にいるのだろうか。毎日の生活に特別な不満はないが、何か人生に劇的な変化が訪れることはないのだろうかと、車窓を流れる街灯りを眺め、浩一は深い溜め息をついた——。

 恵比寿駅を出ると、高架になっている線路脇を渋谷方向へ戻るように歩く。お洒落な街として若者たちが訪れる恵比寿や代官山も、少し奥に入れば時代の波がそこだけを故意に避けていったかような、昭和の古い建物が点在する。
 その昭和の忘れ形見とでも言うべき二階建て木造モルタルのアパートが、永年住んでいる浩一の部屋である。
 古い建物であるが故に家賃も安く、近所の洒落たマンションに比べるとほぼ半値だ。それに何よりも浩一が気に入っているのは、猫の額ほどの裏庭にある桜の樹だった。今年も一昨日あ

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 浩一は抗議の声をあげたが、ちょうど通りかかった電車の音にかき消されて、老婆の耳には入らなかったらしい。
「これを、買いに行ってたものじゃからの」
 けけけと無気味な笑い声をたて、老婆はミネラルウォーターの入ったペットボトルを掲げて見せた。
「そうかっかするものではないぞ。人生とは、この水のようにあらねばならぬ」
 ぽかんとしている浩一に、老婆はそう言うとまたけけけと笑った。
「それで、何を占って欲しい?」
「俺は占って欲しいなんて言ってないぞ!」
「それがいかんのじゃ。そうかっかするではない。ま、そこに座れ」
「だから、占いなんて信じないって」
「信じるかどうかは、お前さんの自由じゃ。いいから座れ」
 浩一の言う事には耳もかさず、老婆はけけけと笑う。
「俺、金持ってないから、一銭も払わないよ」

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「誰も、お前さんから金なんか貰わん。ほれ、座れぇ」
 小さな机の前に置いてある折り畳みの椅子に浩一が座ると、老婆は机の上にボールペンとクレジットカードのようなものを出した。
「何だよ、これ?」
「見ればわかるじゃろう、会員証じゃ。裏に名前と住所を書けばよい。それと、電話番号も忘れずにな」
「いらないって。どうせ入会金だとか言って、金を取ろうと思っているんだろう?」
「お前さんも疑い深いのう。びた一文、貰らわんと言っておろうが」
 そう言われたところで、俄には信用し難い。この場では取られなくても、後から請求される場合も考えられなくもない。もしくは名簿屋に流され、毎日のようにダイレクトメールやら勧誘の電話がかかってくるのもご免だ。
 ——そうか。
 浩一は机の上のカードを見つめ、あることを思いついた。

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のかよ」
「誰が手相をみると言った」
「じゃあ人相か?」
「いいから黙って座っておれ」
 老婆に気押され浩一が口を噤むと、老婆は目を閉じ、口の中で呪文のような言葉を唱えはじめた。まるで寝言のような小さなくぐもった声で、浩一にははっきりと聴き取れない。
「あの……」
 何をしているのかと恐る恐る声をかけてみたが、老婆は目を開けない。
「なんだ、眠っちまったのか。年寄りはこれだからな」
 浩一が愚痴りながら立ち上がろうとしたその刹那、視界がぐにゃりと歪んだようにみえた。
——何だ?
 飲み過ぎたせいかと思い、早くこの場を離れて帰ろうとした。
「大人しく座っておれと言っておろう。お前さんは我慢がないの」
 何ごともなかったように、老婆は唖然として

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 何も正直に自分の名前や電話番号など書くことはないのだ。
 そこで浩一は、柴崎の名前や住所を使うことにした。氏名の欄には柴崎幸市。それから、ぞろ目で覚え易いからと、居酒屋で隆弘が教えてくれた柴崎のマンションの住所と、携帯電話のメモリに入れてあった電話番号を書いた。
 二度とこの占い師のところには来ないのだし、どうせなら別の人物になってしまうのも一考である。それに柴崎の名簿データが流されたところで、浩一には痛くも痒くもない。
それどこか、日頃から嫉妬を覚える相手だけに、爪の先程でも何かしらの優越感に浸ってみたかった。日々舞い込む雑多なダイレクトメールや勧誘の電話に、困り果てるの柴崎の顏が浮かぶようだ。
 ——これでよし。
 浩一はボールペンを置き、机の上で両手の平を広げた。
「何をやっておる」
「だって占うんだろ? 手相をみるんじゃない

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いる浩一に言い放った。
「いや、飲み過ぎたかなと思って」
 それには応えず、老婆は話しだす。
「お前さん、自分の人生に何か劇的な変化がないかと望んでおるな」
「あ、ああ」
 その通りだった。特別な不満はないが、刺激のない毎日を嘆いているのは確かだ。それは何も、浩一だけに限ったことではない。社会の人々は、少なからず同じような思いを抱えて日々を過ごしているのだ。
 そういった思いや、明日への不安感があるからこそ、人は占いや宗教に希望の光りを見い出そうとする。身体の具合が悪いから、病院に行くのと同義だ。医者にも善し悪しがあるように、占い師にも同じことが当てはまるのではないだろうかと浩一は思った。テレビで見る有名な占い師や霊媒師も、浩一の目から見るとインチキ臭い。
「ほほう、わしを疑っておるな」
 不意を突かれた浩一は、返答のしようもな

く口籠った。老婆はけけけと、まるで浩一の心を見透かしているかのようにまた笑った。
「まあよいわ。今日は特別に、お前さんの願いを叶えてやるとするが、あまり調子に乗るでないぞ」
「願い、っていったって……」
 何を言えばいいのか、浩一は具体的な願いを考え倦ねていた。
「さあ、用が済んだらさっさと帰るがいい。わしも忙しいでな」
「まだ、何も願いを言っていないぞ」
 一方的に呼び止めておいて、願いを叶えてやると言ったかと思えば、忙しいからさっさと帰れと言う。まったく身勝手にもほどがある。まだ、金を取られなかったのが唯一の救いではあるが、納得のいかないまま浩一はガード下を後にした。

 コンビニの前にある信号がちょうど赤色だった。この時間になれば車はほとんど通らないので、そのまま渡ってしまってもいいのだが、浩

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一は律儀に信号待ちをした。
 見るともなくコンビニの灯りを見ていた浩一は、老婆がミネラルウォーターのペットボトルを持っていたのを思い出した。きっとここで買ったのだろうと思い、先程のガード下を振り返ったが、そこにはもう小さな机と老婆の姿は見えなかった。
 浩一がここまで歩いてくるほんの数分のあいだに、あの老婆は机や椅子を片付けて、何処かに行ってしまったらしい。あんな場所では客も来ないので、駅前にでも移動したのだろうと思った。
 ちょうど煙草がなくなりそうだったので、ついでにコンビニで飲み物と雑誌も買った。店を出て煙草に火をつけて歩き始めたところで、後ろから若い女性の声がした。浩一は一瞬だけ振返ったが、知らない女性だったのでそのまま歩き出した。
 ところがその女性は、すぐ浩一を追いかけてきた。
「ちょっと、呼んでるのに!」

「何か?」
「まったく、人が呼んでるのに返事くらいしてよね。これ落としたでしょ。柴崎さん」
「シバサキ?」
 浩一はその女性が何を言っているのか理解するまでに、たっぷりと十秒はかかった。女性の差し出した手には、さっき浩一が書いた柴崎名義の会員証があった。どうやら、コンビニで財布を出した時に落としたらしい。その女性は、浩一にカードを渡すとさっさと行ってしまった。
 ——ああ、そうか。
 浩一は苦笑いと一緒に会員カードをポケットにしまった。自分が柴崎という別人になっていた事など、すっかり忘れていた。
 痴漢注意の看板が立つ薄暗い路地を抜け、アパートまでたどり着くと、浩一の部屋の窓から灯りが見えた。電気を消し忘れたまま出てしまったのかと考えたが、浩一の部屋の窓は東向きで、天気のいい朝方は眩しいくらいに陽が入るから、朝の出勤前に灯りをつけたままだった

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